記録 2019.08.17.

*病児保育してくれるところは見つかったのかね。運ぶのも一苦労だろうしなあ。

お父さんは不規則出勤だし、実家は近所なのに頼れないし、

運ぶだけならやるから朝●時に駅に持ってきてくれ。とも手を挙げられんしな。

役に立たずすまぬ。

お母さんの心の健康が一番ですよ。

 

*少し古い話になるけど、ちょっと驚いたのが、お兄ちゃんのことだった。

実家を出て?!地方で?!働いてる?!

20何年も殆どひきこもりでポスティングのバイトしかできなかった人だよね?!

そうなってもしょうがないよな、という生育歴家族歴な人だったよね!?

立派すぎるパパのスパルタ教育、妹は妹でこんな完璧な病人に仕立てあがる病み病みゲバゲバママ。

22歳まで一見普通に育っただけでも奇跡に近いだろみたいな。

もう父ちゃんは中年ニートの息子の社会復帰は諦め、責任をとって自分の死後人並みに暮らせるだけの財産を残してやろうくらいに思ってるんだろうと。

何があったん。

と 思ったけど、頑張って回復したんだよね。

上からの感じがしたなら申し訳がない。

妹も、家族外のたくさんの普通の人に接して、助けられて、回復していったから、それを見て、自分も自立しないと。と10-20年に亘って思い続けていたのだろう。

お兄ちゃんはものを書くような人ではないのか(どうしても私より年が少ないと思い込んできたのでそういうもの言いになってしまう)、でももし何か書いているんだったら読んでみたいような気がする。

フランス語の詩とかだったらムリだがw

で そしたら父親の方がおかしくなってカウンセリング通いをしている で 悪いと思いながらも笑ってしまった。

ざまあみろ。

最初父親がカウンセリングに通ってる話を読んだときは、兄妹の病気に関係して家族療法的なもののひとつなのかな、とか思ってたんだけど

自分のかい。

なるほど。

病気になった子供たちが回復して自立し始めると、今度はその病毒の元の親の方が調子を崩す。

 

*思い出すのは、母と、母方の祖母のこと。

 

母と祖母の話しているところは、記憶にある限り、いろいろとキツめで激しい言葉多い祖母の話を、否定せず、静かに(いや、緊張して固まったように)聴いている母という画ばかりなんだけど、

「だからね、ええ!私、言ってやったのよ」

「○○さん家。なに、あれ??ねえ?どうしょうもないよ、あそこんちは。何考えてんだろ。ねえっ?!

「私は○○さんの葬式には絶対に出ないからね。あ!?冗談じゃないよ。え!?

文字にすると「あ?」「え?」「ねえ?」「ん?」という感じにしかならないんだけど、

「あ」とか「え」とか「ん」には濁点をつけたいし、普通の人だったら「はあああ~~~?」なんて言う時にしか使わないくらいエネルギーがこもってるし、

激しくて恐ろしい感じのする叫び声みたいな感じだよ。そりゃ相手はびびッて黙って聞くしかないよ。みたいなw

普通の会話なのにドスが効きすぎなんだよ。どうしてこうなった。

で 同じ「音」を母も今でもよく使うけど本当にそっくり。私も気を付けないと。と思っている。自分が喋ったものは録音して振り返る習慣をつけたい(別に語学学習のためでなくても、もう)

空き瓶(ジャムとか佃煮とかの)を携帯灰皿にして、強い紙煙草(あの水色のハイライトかセブンスターだったと思う)をすぱすぱやり、もくもくと紫煙。男か女かわからん。みたいな。

(似ている有名人は北島三郎。本当にそっくりw 色黒でぎょろめで出っ歯でしわくちゃで髪型はパンチ)

(「たばこやめろって言ってた医者はみーんな先に死んじゃったねえ~~~~」みたいな)

ちょっと見るとかっこいい・・・かっこいいかな、よくわからんけど、

まあ 仕草も口調も外見も話の内容も男か女かよくわからんと 今書きながら思い出しても思うんだけどw

 

ある時から、急に、母の方が、

「それは、違うよ?お母さん?

「そういう話、やめてくれる?

「でもね」

「私はね」と強い口調で言い咎め、黙る祖母。という画が増えたという感じがしている。

車の後部座席で、祖母、妹、私で祖母の話を聞いていると、母が突然振り返り顔をしかめながら、

「子どもたちの前でそういう話やめてちょうだいっ」と祖母に向かって叫んだりする。

 

ある時点から、急に増えた、祖母にきつく言い返している母の画。

「子どもが出来て、私は強くなれた気がするの」

「女は本当に、母になると強くなるね」

誰かに向かって言っているのを聞いたこともある。

それと同じくらいの時期だと思う。

子どもを使って、自分の言いたいことを言う練習が出来たって言うことだと思う。

何でも否定せずに聴いてくれる子どものおかげで、自己肯定感が増えた、ということだと思う。

子どもを病気にしながら、自分の中の幼児を癒し、言いたいことが言えずに黙るしかなかった自分の親にも言いたいことが言えるように「強く」なる。

 

そして親は、体力精神力ともに衰え始め、エネルギーを使って相手を支配するような喋り方が出来なくなる。

祖母は、記憶にある限り、私が中学生になる頃から急に、世の中に、誰も彼もに、怯えたような感じの老人になっていったと思う。

そして、ますます「もうちょっと、困るんだけど!!」「やめてくれる、それ」と強く出るようになった娘にも、逆らえない。

かといって孫の私が、「ちょっとお母さん言い過ぎ」「おばあちゃんかわいそうでしょ」とか庇えるかといったら、それも出来ない。

だっておばあちゃん怖い人だったからね。

「おばあちゃんは、そういう子は嫌いだからね」と突き放すときの口調。

「お母さんは、おばあちゃんのことが好きじゃないけど、逆らえないんだな」という感じ。

認知症になって何もかもを怖がり幼児のように泣き叫んでいるのを、みんなで笑っていた、というのは、話に聞いただけだけど、まあ、そうだろうね。自然な流れだよね。誰も庇わないよね。可笑しくて笑っちゃうよねwと思った。

 

子どもが壮年となり病を癒し強くなる頃、今度は老いたかつての支配者である親は弱り。

もう何百年もこれ、繰り返してたんじゃね?と考える。

祖母の母のことは誰の話にも聞いたこともないが

祖母とその母との関係は私たち(祖母と母、母と私)以上に歪んでいて恐ろしいものだったのではないか?

訊けば、母の記憶には残っているのかもしれないが・・・

 

6人の子(一番上のお姉さんはすでにお嫁に行っていたかもしれないが)を抱えて

家業・家事・育児に忙しい祖母のもとに時々あらわれ(まだ、電話はそんなに一般的ではなかったかもしれない)

おそろしい口調で愚痴(愚痴というよりも何か誰かに対する罵倒に近いかもしれない)を吐いて帰っていく。

1960年代初頭の、オリンピックに向けて挙国一致の大事業に湧いた東京の、特に栄えた工業地帯での話だ。

 

嵐のように祖母の母の帰った後、祖母は・・・

「あの人は、私の反面教師なの。また孫(母とその兄弟)にはいろいろ買い与えて」

「ちゃんとお礼は言ったの、私があの人から言われるんだからね、大人に対する口の利き方がなってないとか」

「お母さんはね、はっきり言って、あの人のことは嫌い。来てほしくないの。会いたくない。でも、来たら追い返せない」

と話が分かるようになった母にこんこんと言い聞かす祖母。

 

すでに「支配者」の母に反抗的になりつつあった兄2人はあまり家に寄り付かない。

(12-3歳の頃、彼らは18歳~就職するかしないかくらい?1960)

時々、祖母と言い争って飛び出していき、その後祖母は母をつかまえて

「あんな風になったら終わりだよっ。何だ親に向かってあの言い様は。どこかで乞食になってろ。あんたがあんな風になったらもう家に入れないからね」

祖母の毒トークを浴びるほど聞かされる妹。

を、心配していた良心が、当時の母の家族にあったとするなら、

母の父(当時60代だろうか、私は会ったことがない)と一番上の兄(生涯未婚で、祖母が認知症を発症して母が(私から見て)実家に引き取るまで、ずっと一緒に暮らしていた。2010年頃に病没)だと思う。

 

母の父や一番上の兄は、末の妹の心の健康を心配して

(心の健康なんて概念が当時の日本の社会にあったのかも疑問だが・・・大戦後15年、Philopon発売中止から10年前後、社会全体の戦争の心的外傷だってまだ癒えていない頃だったと思う。傷痍軍人の人、戦争孤児、戦争未亡人みたいな人も、東京では、たくさん見られたと思う)

母が不在の時は、毒の中和でもするように、一緒に過ごすようにしていたのではないか?

「母ちゃんは相変わらずキツイな、姉ちゃんが嫁に行ったから聞き役にさせられて○○子は大変だよな。はい小遣い、うまい菓子や好きな漫画買いな、内緒だぞ、またうるさいからな」

その嫁に行った一番上の姉ちゃんもすさまじく喘息だったなあ。

1回だけ会ったことがある。私10歳、母40歳、母の姉55歳くらいの時?

日本海側の、真っ青な空と海、見渡す限り山と田んぼしかない、民家や車もまばらな

もんのすごく空気のきれいなところに住んでいるのに、普通に話せない、酸素マスクが必要なくらいのひどいぜんそくだったことにびっくりしたことはよく憶えている。

どう考えたって私に病気を起こした毒と同じ毒にあてられた心因性だよなあと今は思うが。

戦前、1940?年生まれの、初めての女の子。まだ(祖母は後妻、祖母とあまり年齢の変わらない前妻の娘が居たという)前妻の娘とも同居していたんだろうと想像する。

姉ちゃんは、末妹の母が話が分かるほど成長するまでに(推測だが母の姉と母は15歳は離れていると思う。母は祖母36歳の時の子)どんな話を聞かされ続けたんだろうか。怖。

 

この母の姉と兄についてはまだまだいろいろ考えたことがあるのだがまた書くと思う。

 

**話が随分遠くまで来てしまったが(10何時間もかけて休み休み書いてますいくらなんでもさしもの私もw)

病気の子どもの世代が良くなると

上の世代は、急に弱りだす。下の世代が発症しだす。

何百年も、病気をもつ家系の方々で繰り返されてきたことだと思う。

記録にも、画像にも、残っていないし、「私」のこの記述だって100年後には痕跡も残らないだろうが、

遺伝子とは別のデータとして私に乗っかって発現しているということ。

そういう、言葉にも形にも何にも残らないのに、

「こんなに苦しい」ものとして生きた人間の中に残り、

その無数の重なりの上にふわりとのっかったような小さなかけらが私の今日で。

 

そんなことを考えていたら苦しくて苦しくて久し振りに(本当に久しぶりに)泣いてしまった。

生まれてきちゃいけない。

生き続けてはいけない。

本当に久しぶりにそう思った。

悟りきった聖人の如く「それでもそれらすべてが愛しいではないですか」と言えるような時もあるにはあるけど、

自分で自分に「けっ」ですよいくらなんでもw

 

ちょっと思うんだけど歴史に残るような凶悪犯罪者は死刑になんかしちゃいけないんだよ。

賛否あることを承知で、件の青葉容疑者を取り調べ出来るまで回復させるという努力は正しいと思う。

肉体を死ねなくして徹底的に動機の原因を究明、加療・更生・矯正して次世代の病気の芽を監視、教育する立場に就かせるべき。

肉体や生殖細胞を冷凍保存してでも思考回路。成育歴。など吐き出させ切る技術の開発されるのを待たせ、

似たような痕跡をもつ家系追跡も可能になる時代まで温存しておくべき。

数百年後には、死刑、というのが極刑だったというのも古い話になりそうですね。

まあそういうネガティブを消しきった世界が人間の世界なのか?という問題も残るけど。

 

 

**今日も散らかった話になったなあ。

マジで最後まで読む人がいるのか、と自分で思うがw

それも含めて非常に不安定な心理状態の記録として貼る。

 

そろそろいつもの読み物もまたたまってきたのでこの辺で。