記録 2019.03.15.まだまだw

*うーむ。新しいところの末席に加えてもらって、いろいろ覚えること、見て回るところ、多くて忙しくて
もう少し「わくわく」したい とか思っているけど・・・
自分自身のことは、以前にも増して「気持ちが悪い」

私は、父親と同じなんだ。と思うと「ぞっ」として、そして漸く気が付いた。
私は父親が大嫌いなんだと。
そして、そのことに気が付きたくなかったんだと。
父のことについて
母のことについて
父と母の関係について
その40年の変遷について
思いを巡らすと、「感覚」が止まっていくのが、最近は、よくわかる。
感じたくない。あまりにもマイナスなことしかないから、感じたくないのだ。
ということだけが、よくわかるようになってきた。

やりたいことがわからない。
好き嫌いがわからない。
地頭の良さにだけ頼って世渡り。
まともな生活のできなくなるほどの、依存症。

「結婚するまで、知らされてなかったのよ。結婚してから、知ったの。お相伴して好きになろうとしてやってみたけど、ダメだったわ」
すさまじいギャンブル依存であること。
「でも、おばあちゃん(父方の祖母)のために離婚しないわ」
自分に言い聞かせるように、毎日のように繰り返す母。(私が、中学校2,3年頃の話。1991ー2年)

おそらく、「話が違うじゃないですか?聞いてません、こんなこと」と母が義母に抗議したとき、泣いて謝られたんだろう。
私が生まれるか生まれないかあたりの話だと思う。
仕事に行かないで、遊んでいる(職場から電話がかかってきてびっくりした)とか、
仕事の後、帰ってこないで明け方まで「打っている」とか
給料日なのに一円も家にいれないで、問い詰めると、その日の晩に使い切ったとか。
どういうことだ、と、義母に詰め寄ったことが1度や2度じゃないのだと思う。(これは想像)
「結婚して家庭を持てば、ちゃんと定職に就いて地に足の着いた生活をしてくれると思った。もう30にもなるのに、定職にも就かずに遊び歩いてるのを、やっと結婚させて定職に就かせたんだ。(私の幼いころに父の勤めていた会社は、おばあちゃんが肝いりで就職させたらしい)戻ってこさせるなんて言わないでくれ。末の娘(当時27-8?)も大卒後すぐに見合いさせ嫁がせたが、結婚生活が続かずに戻ってきて5年。仕事は続けさせているが全く将来に関する危機感もない。長兄(当時35-6?)は結婚はして子供が3人(上から8歳,6歳,3歳?)もいるのに仕事が続かないで家の貯えを切り崩している状態だ。私を助けると思って別れないでくれ」
この、おばあちゃんのセリフも、想像だけどね。

そうして生まれた私と。父と。
近頃よく思いだすのは父の記憶。
あまり一緒に過ごした時間は多くないのに、ろくなものがない。
心臓がぎゅうっとなって、身体中の毛穴が閉まるような感じと一緒に残っている記憶。
まだまだ続きます・・・・(-__________-)

【これは少し前に書いていたもの。3月10日(日)という日付が残っていた】
*そういえば。
を、ほじくりだして・・・
ほじくるっていうんじゃないな、もう勝手にわいて出てくるんだよな。
ぐわっ。うじゃ〜。
布団にもぐりこんでいるのに「うわあっ(はあはあ)」みたいなw
なんのホラーだよw漫画太郎先生の画風(トラウマギャグ)風に。

1週間ぶりくらいに人間と話をしたんだけど、
ちゃんと話が出来たので、まあ仕事は大丈夫かと思う。いや、どうかな。
まあ ちゃんとした格好で化粧もして。大丈夫かw

*そういえば父親の一番上のお兄さんってどうなった?
名前も顔ももう思い出せないけど、最後に彼を見たのはいつだ?
・・・
お盆やお正月などに父方の実家に行くと、顔を出していたような記憶はあるけど、
毎回言葉を交わすのはその奥さんである伯母さんの方。(このおばさんがおばあちゃんの没後、びっくりな行動に出るんだけど・・・)
1990年(私は中学校1年生)、父方のおばあちゃん77歳のお祝いに、いとこ3人は同席していたことを憶えているんだけど、その両親は?
1999年か2000年?祖母のお葬式?祭壇の右側に墨書きされた施主名は三男である父親の名前だった記憶。
「あれ?」とは少しだけ思ったけど何も言わなかった。
2004年、妹の結婚式・・・父の、2番目のお兄さん(この人は子供の頃に養子に行った人で、2016年に病没)とはお話をした記憶がある。
その時も特に「そういえばお父さんの一番上のお兄さんは?」とは思わなかった。
ライフイベントはよく開催する一族だから、(それでも都会なので地方ほどではないのかも)その「法事」のことすら聞いたことがないって、どういうことなんだろう。

急に思い出して気持ちが悪くなって。
いや、私が忘れているだけで、何かで教えてもらったりはしていたのかもしれない。
どうして一番上のお兄さんの子供(たぶん父親のお父さんをn代目としてn+2代目(私もこの代である)では一番頭がいい大学を出て「良い」会社に勤めている人だと思う。直系男子としては申し分がないんだろうね。しかし?)は、わざわざお兄ちゃん専用の、勉強部屋の小屋なんて敷地内に建てていたんだろう?
おばあちゃんちの隣だったけど、(昭和時代にしては珍しい二世帯住宅?)
遊びに行ったこともなかったし(何時も、いとこがおばあちゃんちの方に遊びに来ていた)このよく遊んでくれたいとこ(3つ上くらいの♀だったかな?)がまためちゃくちゃ頭がいい。
オセロとか序盤で真っ白(黒)にされてしまい勝負にならない。とかいう恐ろしい記憶がw
「おばあちゃんちが『近く』ていいなあ」(どこでもドアだあ〜って私たちは浮かれて言っていたけどドアでつながっていた)
どんな構造になっていたのか全く分からない。
謎が多い家だった。
また、一番上のお兄さんの娘(長姉)はいつの間にか(2000年代後半から12年くらいまでの間?)亡くなっていて、死因は不明である。(訊いても教えてくれないのだそうだ)
このふたりはもしかすると自殺か行方不明、「人には言えない理由」なのかも?

母方と比べて「問題がない」家かのようにずっと思ってきた父方の家。
この川のほとりの一帯の土地は、●●家のものだったんだ、と母は父方の祖母から、聞かされたという。
おばあちゃんが嫁いできたのは戦前、1930年代のことだと思う。
このあたりはまだ「東京府」だったらしいが、川を境に整理されて、橋が整備され、鉄道が通った。
戦前の日本の鉄道黄金時代と言われている時代ね。
今でいう情報技術みたいに新時代の社会インフラとして爆発的な普及に貢献した会社や経営者たちが絶大な権力をふるった頃の話。
また、川沿いに、海から内陸までをつなぐ鉄道が通ったことで、工場がたくさん建ち始めた頃。
このあたりの大地主であったということは、成金とかではなく、もともと、代々、裕福だったんだろうなと想像できる。
太平洋戦争をはさんで、「農地解放」で「接収」された土地のことを差し引いて考えても、(まだ工業地帯というよりは農業をやっている土地もたくさんあったと思う)
戦後は大手私鉄会社が、都市開発に乗り出し始め。
バブル崩壊以前はこのあたりの土地の値段は右肩上がりなんてものじゃなかったと思う。
働かなくても、男児3人を十分に大学までやれたし、末娘の嫁入り資金も準備できたのだと思う。
お父さんのお父さんも、お父さんの一番上のお兄さんも、一生、働いてはいなかったらしい。
末の女の子(父の妹)は一応働いてはいたけれど、歩いて30秒の会社の軽作業。
(これも詳しく突っ込んで聞いたことはないけれど、一度か2度結婚に失敗しているのではないか?と想像。この父の妹(既に故人)のこともまた掘り下げたいと思う)
しかしそれでもすべて2代50年前後で「処分」し切れるものなのだろうか。
「問題がない」とは聞かされてきたけど、本当は全員、すべてを食い尽くすほどの何かの「依存症」だった可能性。
「見たところ」派手ではなくて 浪費家でもなくてゴミ屋敷でもなくて宗教にはまっていた感じもなくて
でも、
半世紀ほどかけて、おばあちゃんは、こっそりと、土地資産を売っては何かの清算に充てていた。
そう考えるのが、妥当。

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まあ相変わらず書いているだけでチカチカして気持ち悪くなってくるよね。w
当分こんな感じなのかな。どうかな。
新しい会社の話の素敵な話とかも書きたいのだけども。
(-__________-)ふぐー