記録 2019.03.09.自分の中でだけの。

*保育園や幼稚園に行く頃、同月齢同年齢の子と一緒にいろいろするようになると、
比べられて褒められることも増えるんじゃないかなあと推測。
何しろ遺伝子レベルで日本人全体の上位5%が含まれているのだからそっちの心配。
でもあえて子供に夢を託したくないと。
頭がいい、筋がいいといくら褒められても、彼女が望まないなら絶対にやらせない。
親が比べて喜びたいがために「いろいろやらせてみて」一喜一憂するのに振り回され続けて病気になった一人であるおばさんは遠くから
自分の好き嫌いを持てる子に育つといいなあと思っております。
教育はいい意味でも悪い意味でもある種の大きな賭け、壮大な実験なんだ、という言葉をどこかで読んだ気がする。
(こういう言い方も雑な感じを与える世の中になってきましたね。少しは調べたら?みたいな
「どこかで聞いたけど」「タイトルは忘れたけど」「誰だったかは忘れたけど」)
そのコマとして子供(次の世代)を扱う側面がどうしても消えないのだと。
超長期的なさまざまな試行の結果の、「失敗」「負の側面」に対する言い訳のような文脈だったか?
今の21世紀初めころの日本の教育システムを大きな意味で評価するのは、
鳥生子ちゃんの更にその次の世代(2040年生まれ以降、2060年代〜)くらいだろうけど、
明治維新だって、日本人の間でだって、1968年(明治維新100年)と2018年(同150年)では随分評価が違っているらしい。
なので2068年の人々の1868年に対する印象や評論も私たちが見聞きしたものとはかなり違う可能性。

*ふつうだけど。やさしいけど。
不安?不満?何もないけど。
時々「えっ」と驚くことがあるから。
妙な冷たさ。暗さ。自暴自棄な感じ。
なんとなく油断できない感じ。
肝腎なことは言えない。
緊張した空気感。
ずーっとあったけど、ひっかかってもなかった、細かな記憶とそれに絡みついている「感じ」をそばに置いて「見て」いると
**そんなことやってないでもう少しきちんと生活したらどうだ とか
**この記憶の詳細さがキモイ。実にキモイ。
**誰も他に「そうそう」「あったねー」と同意できないのであれば、ほぼフィクションw創作w妄想w
私の頭の中は例によって非難と批判と嘲笑だらけになるのでそれもしんどい。w

*「おばあちゃんが育て方を間違ったんだ」と父親に関してはよく母親が言っていた。
「おばあちゃん本人はいい人なんだけどねー」
ま 今となっては彼が実家にいた(30年)よりも長い間(42-3年)一緒にいるわけだから嫁のしつけだわね、ということで最近はいくら何でも聞かないw
3番目の男の子で、一番頭が良かったらしい。
たぶん人並みに過ごしていれば、「やりたいこと」が分かり、普通に努力が出来る人であれば、
日本で一番頭のいい学校を出て、かなり仕事が出来た人なんだと思う。
新聞の「私の履歴書」に出てくるみたいな?

めったに自分から喋らないけど、話すと、その内容。
(あれほど本を読んでいるところを見たことがないのにどこでそこまで仕入れたんだというほどの情報量w)
喋らないんだからものを書くということもないんだけど、書かせたらまた大変なことになりそう。
(おそらく手書きでも一切スマホを使わずに書き上げるだろうなw)
めったに自分から参加したりはしないけど、何かのゲーム、スポーツ。を「しぶしぶ」始めるとその結果。
で、「えっ」となるので
やっぱり同年齢を何十人何百人集めて日々いろいろやらされて比較される学校時代なんかは大変だったんじゃないかな。
相当家族の大人陣や教育関係者は騒いだんじゃないだろうか。
ただ、本人は、自分からは決して食いついていかない感じ。
「周りがバカすぎてつまらない」
「周りが弱すぎて勝負にならない」
「簡単すぎて楽しくない」
という「冷めた」感じとも違う。嫌な奴ではない。逆。自己主張がなさすぎる感じ。
小さなころから家に帰らないでほとんど遊んでばかりいたんだという。
上に二人のお兄さんが居るんだけど、その二人のお兄さんと、「比較」されていたのではないか?
比較のされ方が、本人たちにとっては、苦痛なものであった可能性。

私にもそういう感覚はあって
たぶん一般的なものではないという自覚もあって
周りより出来てしまうから、「目立つ」ことに妙な罪悪感がある。未だにある。
わざと頑張らない。
わざと周りに合わせた「出来」にする。
何だろう、あの「出来て目立ってしまった」時の「しまった」という感じ。
「あの子は出来るのにあなたは」という比較のされ方も悔しさを煽られるというけれど、
「出来てしまった」時の「恥ずかしい」感じの方がはるかに強い。

わざと、得意なものではなく、「苦手なことの方に向かっていく」
勝負は、舞台を選ぶところからもう始まっている。
と、為末選手は言っていたけど、
彼我の能力を冷静に比較して、勝てる舞台を選ぶところから勝負は始まっているんだ、
勝てる場所を探して、始めることが大事。
と喝破した言葉だけど、
どこまでもその「逆」を選択してしまう。
勝ってはいけないと思っているから、勝てない場所を選ぶ。
勝てる場所を周りの大人が提示しても、それは選べない。
結果長期的に能力をつぶす結果になる。

*はあ。やっぱり「重い」
実に重い。
誰からも賛同も称賛もされないこと、
実証も出来ないこと(多くの関係者が既に死亡後である・・・が、この場合「事実」かどうかよりも私の中でどう受け取られて残ったかが重要なので実証も不要)
自分の中では常に「何やってんだ」と非難囂囂であること
を どうしてここまでほじらないといけないのか。
という全身脱力な自問も含めて「記録」として。
(しかし1割も言葉になってないと思う。wまだまだ続くと思うw仕事にはいくよ。初日が3月11日だよ。)