記録 2017.12.21.

*金曜日(12月15日)になって、ちょっと「がっ」が来て、寒いのに、帰って来てから、足をのばして買い物に行ったり。ぱたぱた、ごそごそ。

*ある時、一時、「ぴたっ」と止まる。あんなに母、母の母の声ばかり響いていた頭の中に、
不思議な(不気味な)静寂が一瞬。しつこい耳鳴りがやみ、身体が軽くなって、少し笑えるようになってる。
正常におなかがすき、食欲がわく。(普通だろ・・・w)
さすがに心身が自然に休みますか。休息を欲しますか。というより強制再起動ですかw

*そうすると、日々の読み物が、さくさく進むようになって、身体が、動くようになって、
久しぶりに、21世紀初頭の普通の40代の人間風のものになれている気がする。楽ちんだ。
戻りたくないな、また、「パカッ」とやりたくないな、と思う。(今ここ)
いろいろ考えたんだけど、ことばになるレベルにまでなって来たんだけど。
**私は実際に見ていないが、聞いたところによる、祖母の認知症の症状についての考察
**母の姉(1935?-1995?)(一度しか、会ってないけど。母の姉の娘(1960?-)家族には何回か会ったことあり)
**母の兄(1940?-2014?)が結婚しなかった理由
**母の兄2(1945?-)の家族(母には兄3,兄4も居る筈なのだけれど、会ったこともない。兄3は、祖母と母の間で激しく罵倒されていた記憶はあり「あの人の葬式には絶対に出ないからね!!」等←すごくね?何やったんだ兄3よ。冷汗)
**母の口癖から考えた祖母の口癖
**祖母と母のやりとりから考えられる、祖母の母(1880?-1960?)のこと
**母が私の子育てに関して祖母から言われていたであろう(母と祖母の会話は、実際には聞かされていない・・・伝え聞いたところによる、想像した)小言
**1993年1月8日のこと。
まあ 自分でもざーっと書いてて「つまんね〜イラネ〜どーでもいいわ・・・超ダルくね?何より今更いまさらイマサラi ma sa ra!!」
(-    -)

*Year-end Party(12月14日)はとっても楽しかったよ。
なんか知らないけど、いっぱい褒めてもらったし、話したかった人と話せたりして。
入って2日で3人に「ちょっと」と呼ばれて「●さんには気をつけろ」と「忠告」された人がいるんだけど、
「すごい長文のメールが送られてきても気にするな」
「なんか怒らせちゃった、怖い、っていうようなことがあったら相談してくれ」
「●さんとはどうやってコミュニケーションをとりますか?」
(いえっ。私の方が絶対「変人」ですからっ。(だからだろw))
なぜかそのパーティーの翌日、ランチに誘われたので●さんとは珍しく仲良しらしい○さんと、3人でランチに行って。「なんだ普通の人じゃないか」
とっても変わった、でも雰囲気のあるイタリアンで、おいしかったし。

*で、月曜日(12月18日)。どんより。どんより。ぼくは、うどんよりそばがすきだ。(ある中国人日本語学生の作文。問題)「どんより」を使って文を作りなさい))
てか室内なのに3度。
どうも、身体の中の「炉」の調節がうまくいかないようで。
気温と暑さ寒さの感じ方が乖離しすぎだわ。

灯油ストーブがありがたすぎで。
「だめだだめだ」とブツブツ言いながらなんとか着替え。
うん、着替えて化粧してしまえば、何とか動ける。

会社に着き、机に向かってしまえば、何とか頭も動き始める。
が、また、変な気持ち悪さ・耳鳴りとともに。

だめだ。本当にだめだわ。
頭を抱えて蹲ってしまいそう。
心の中が泣き止まないよ。
申し訳がない。恥ずかしい。いやだ。怖い。いやだ。いーやーだーー!!

*各人の足許にストーブが置けるように電気工事をしてくださったのでストーブを設置してもらったよ。
本当に足許が寒かったから、ありがたかったなあ。まるでこたつのような。
しかし各人にひとつ電気ストーブって電気代どうなっちゃうんだろか。(怖)
寒いっていうことはさ、寒いからこそ楽しいこと、気持ちいいもの、ん〜たまらん☆ってこともあるわけで。
ストーブのあったかさっていうのも、そのひとつなんだよねえ。しかも電気だよ。ぜいたくだ〜☆
季節が。日が長くなり、空から春が来て、梅が咲き、モクレンが咲き、あの風が吹いて、桜が咲いて散ってあったかくなるまで。楽しめるといいよね。
家の灯油も切らさないようにしないと。

*(まだ月曜日)で、「も〜ムリだ」と思いながら帰ってきたら土曜日ほどでもない、
ちょっとだけ「がっ」が来たので「ドドド」と掃除機かけたり。
まったく今日も漫画風に描くと目が互い違い風のどうしょうもないデムパっぷりでありまして。(自分目線。別に「普通じゃね?」ともちょっとは思うんだけど)
(-    -)

*何で気がつかなかったんだろうか?
母が私に会うととても楽しそうなのは、
私が実家を出てから、しばらく、いや10年経っても、長い手紙を書いて送って来てくれたのは、
私を特別愛していたからではない。
ただ、他に、話せる人、自分の思いのたけをぶちまけて、「満足」出来る相手が、他に居なかっただけだ。
きっと多分、見つけたと思っては、おそらく、相手の方から距離を置かれたりして。
または、自分が我慢できなくなって来たりして。
18年かけて、一番うまく「調教」できた娘の一人が、「やっぱり一番♪」ということなんじゃないかな。
「今こうして生きていられるのは、誰のおかげ?」と訊けば「お母さんのおかげです」と定型文で答える父だって、
私ほど「調教」出来たとは言い難いでしょうし。

*きっと祖母と母も「こんな感じ」で。
「私は(親を捨てたという)罪悪感に苦しみたくないっ」と叫ぶように「宣言」して、他の兄弟は全員、5人も居るのに、「捨てた」
自分だって、長く「反面教師」としてきた、簡潔に言って「女、人間としてどうかと思う」と弾劾すらしてきた母が、
弱り、幼児退行し、ありもしないものを見て泣き、怒り、叫ぶという「認知症」を発症し、
文字通りの「社会、家族のお荷物」となってからも最後まで「看病」したという。
別に、そんなに変わっていなくない?関係性。
怖がりで、強がりで、「誰からも愛されない」ことを感じているから、必死に気を惹こうとして、ますます嫌われているという、幼女の面倒を見る。
小さい時から、ずっと、やってきたことでしょう?
私のように。どこでも、どんな時も、決して、否定せず、「うん、そうだね」「お母さんはいつも正しい」と。
「怖いよーーーー助けてーーーーー」
「飛行機が、私に向かって、爆弾を落として来る!!助けて!!逃げて!!」
「背中に、たくさん、人が入っているから、とって!!とってーーーー!!」
医師のカルテには「被害妄想」「誇大妄想」などと書かれ、精神を安定させる薬が処方されていたという。
全然驚くことでもない、と私は思った。
金で、力で、周囲を支配できなくなり、身体が思うように動かなくなれば、そんなの、出て来て、当然。
認知症」発症直前の最晩年には、Sにも突貫していたとか。まあ私もsにねw
最後のあがきだったんでしょうね。
迫る、「忘れ続けて来た」「紛らわせ続けて来た」記憶、感情、恐怖から遁れようとしての。

私の中にも、確実に引き継がれている「幼女のバケモノ」
ひたすら、闇に怯え、恐怖と痛みに叫び、怒りと寂しさで這いずり回る・・・
何百、何千年と積もった、世界、人間への怨念や恐怖の澱。そして孤独。
通常は死後に生涯の行いを見せられるという浄玻璃鏡を、生きながらに見せられていたということなんだろう。
とっくに、精神は生きられなくなっているのに、身体だけを、「医療」と現代は呼ばれている不自然な方法で生かし続けて周囲共に苦しむなんて愚かだ。
と、思い、自分にも生きる意味があるのかな?みたいなことを考え。ぐるぐる。
本来は、生きられていなかった筈の心をさまざまな「症状」で「助けてまで」生きることの意味。
ま これから10~20年の間に、日本の社会では、大きく取り上げられていくお題なのではないでしょうかね。

・・・書くつもりがなかったのに書けちゃったよ。
も〜終わりにしてしまいたい読みものがあったのに。
とりあえず「何か・・・違くね?」も半分くらい含まれているけど それも含めて記録として。
今木曜日か。(-    -)