過食症の原因(となる感情)を「感じ取る」とは

過食症を風邪に喩えて
過食はセキやくしゃみのような「症状」で、
セキやくしゃみを幾ら我慢しても、原因になっているウイルスを取り除くことにはならない、
温かくして、安静にするという、セキやくしゃみとは全く無関係に思われることをきちんとすることで、
我慢しなくても、せきやくしゃみが出なくなっていき、平癒するように
過食症も、過食とは、一見何の関係もないと思われる、
「感じられなくなったマイナス感情」
耐え難い怒り、寂しさ、憎しみ、悲しみ、不満、不安、・・・の起こしているものなので、
それを、感じ取ってあげることが、何よりも大切・・・
と、私は色々なところに、よく書くのだけれど、
でも、なら、どうやってそれを感じてあげられるのか?
それは、私にもよく分からない。
お医者様に訊いても、答えられないだろう。

「感じられなくなった」感情、というのは、あったけど、消えた。無くなった。とか、
忘れた、というのではなく、
感じるには、認めるには、色々な理由によって、あまりにも不便で、
感じていては、生活に支障が出るので、心・身体・頭が総動員して、
麻痺させてしまった。という意味だ。
その方が、便利で快適に生きられる、と。
それで何も「症状」が出ないのなら、それでいい。
何かの依存症や、痛み、かゆみ、普通には見られないような「困った」ことが、
心や身体に現れないのなら、そのまま生きていくのだろう。

ただ、私たちは、いろいろの不便な症状
-私はそれをブログのタイトルにし、Nameless Diseasesと言った-
をもつようになり、
この不便をどうにか減らしたい、普通に暮らしたい、というところがスタートになって、
一旦(何十年もかけて)、「感じなくした」ものを、再び感じなければいけない、
ということになった。

これを病気と認める前(6年前)、私は、「怒る」ってどんなこと?
「イライラする」「ストレス」ってどんなこと?
という状態だった。そして、滅多に笑わない。怒らない。泣かない。
それで過食嘔吐だけが、一日中。
「寂しい」に至っては、3年ほど前に分かるようになった。
何が言いたいのかというと、麻痺が尋常でなかったということだ。

その麻痺を解き、痛みを感じられるように、
感じられなかったものを感じられるようになっていく過程で、
症状(過食)が減っていく・・・ という経験から、
症状を減らすためには、感じられるようになること、と言う。

心のことでなくても、身体、スポーツのトレーニングでも、
「その部分をコントロールしたいと思ったら、その部分の感覚を鋭くしていくこと」
と言われる。
「コントロールしたいと思ったら、まず、感じることから」
これは、感情にも言えることだと思う。

病気(過食)を持ち出してきてまで、感じなくした「感情」・・・
一日や二日で、感じられるようなものではないのが普通だろう。
感じようとすると、必ず「邪魔」が入るのが普通だろう。
「考え」が色々湧いてきて、なにがなんだかわからなくなる、という「反応」が、寧ろ自然のように思われる。
強い過食衝動が起こり、一時的に酷くなる、という方が当然だとも、思う。
だから、幾ら奨めても、これはとても危険な「荒療治」、
一時的に非常に残酷なことなんだ、と、私はいつも思う。
「それでも」普通に近づきたい。感じたい。どんなに苦しくても。過食の苦しさの方がイヤだ。
と、願い続けた人は、必ず「それ」を感じられるようになり、
少し時間(数週間〜)をおき、明らかに見掛けの症状も減ってくる。
という人を、自分以外にも、何人か見る機会にめぐまれていた。
というだけで、私は何の資格もないし、専門的に勉強をしたわけでもない、
症状がなくなりきったわけでもない、ひとりの病人・・・
が、何を言う、と思いながら、書いてみた。

長いし。
「分かってちゃん」が相当軽くなっていて、あまり文章を書かなくなったけど、
もっと、日本語自体、修行を積まなければいけないんじゃないの?
英語書いてる場合?とも思う昨今・・・