育ってしまった「もやし」の心は

拒食症も過食症も、心の問題が起こしてきている「症状」という考えから。

拒食症の人が、家族にいっぱい心配されて、
ブログをやるような人は、ネット中から、「がんばって」と応援されて、
それでも、「構って構って、寂しいよ、もっと見てよ」をずーっとやってる、というのを、時々、見る。

私たちの心は、芽を出す時に光を当てないで育てたもやしみたいなもので
白くもやしに育ってしまった後で、太陽の光に幾ら当てても、
本来の緑の芽には戻れないように
小さな子供の頃(生まれてから、小学校低学年くらいまで)に、
必要な愛情を、適切に受け取れて居ないまま、
身体だけ育ってしまった後に、幾ら両親に心配され、
周り中から注目され、愛され、保護されても、
健康な、普通の心と身体には、戻ることが出来ない。

私が信じているのは、
そういう「育ってしまった」後の心と身体も、
必ず、普通に健康に育った人と同じように、なれる、出来る。ということ。
それは、他者からの愛では出来ない、ということ。
今更外から幾ら、昔に、受け取り損ねた愛情を注がれても、癒えようがない、ということ。
自分の心の中に、育てた愛で、忌まわしい症状にとらわれなければならなかった心と身体は、だんだんと満たされていくということ。

それは、出来る限り、
無条件で、無差別の愛、感謝。
「生きているだけで、ありがとう」
「どんなあなたでも、大好き。(私に、どんな酷いことを言ってもやっても、許すよ。ましてあなたは病気なんだもの)」
LAVLA(ラブラ)ということ。

教わっていない、愛し方を学ぶこと。
貰った事のない愛を、生み出すこと。
「そんなの教わってない!」
「そんなの貰ったことない!」
「そんなことが分かるような生き方してきていない!」
嘆きながら、苦しみながらね。
それが「進化」するうちに、異常な症状は、だんだんと、必要なくなる。
もやしが青々とそだつために必要だった「光」は
もやしたち自身の中に、生み出されることができる。

私が信じていること。ねえ、信じさせてよ。
他の人の上にも、それが起こるって。
奇跡なんかじゃないよって。
本当に本当の回復を望んだ人に、それは可能だと。


センターでは、それを、少し、見た気がする。
しかし、LAVLAを本当に実践しようとする者には、居られない場所だった。

センターの為に役に立つ人。
センターの為にセンターが「うん」と言うだけのお金を積める人。
しか、良くなる資格もない、という場所だったからね。

LAVLAを唱えながら、それとは正反対の、
「お金持ちの子」
「誰かのお気に入りの子(具体的には、何でも受け容れてくれて、過去の犯罪さえも許してくれて、自我のない、自分に対してマイナス感情を持たない、完全な無賃で「フルタイム」で働いてくれる)」
しか、助からなくていい。
しかも、病気の怖さを叩き込み、自分からも散々叫ばせた後に・・・
という場所だったから。

どれくらい、当人の知らないところで、切り捨てられるのを見てきただろう?
(彼にとっては、スーパーバイザーxクライアント、直接の利害関係者なのに!)
怖かった。つらかった。苦しかった。おかしいと思った。
でも、感じることすらなかった。私もおかしかった。
今でも心にささくれのようにひっかかっている。
本当に、今後少しずつ、きちんと整理したい。