嵐の夜に(3日目)

症状が止まって(今回は)3日目の夜。
過食衝動が無い、のに、(から?)酷く陰惨な気分で困る。
悲しい、のか、苦しい、のか。
言葉にかからない、また、今までに感じたことのないようなものが通っていっている。
身体が重い。涙は、出ない。イライラは、しない。
においや、光や、あらゆる音に、いつもよりも過敏になっている。
頭の中を静かに、「考え」を止め、「言葉」をなくしていくと、決まって、音楽が流れ始める。
なりやまない音楽もまた、TMSの一種だと思う。
私、誰でもみんな、頭の中にふいに流れ出す音楽って、持っているものだと思ってたんだけど、
(だから、どうしてみんな携帯プレイヤーを持ち出してまで表で聴くのかとw)
どうも、心因性の痛み・かゆみや、原因不明の、意志でコントロールできない「症状」のように、
「何かを感じないために」心が起こしている「トリック」なんじゃないかと、
今では思っている。
というのは、健常の人はそんなものを持たず、
病人に、奇妙な一致をもって現れていることをセンターで知って以来。

少し、こうして、何か書いていたり、仕事をしている方が楽だ。
新聞や、本は、あまり読みたくない。

何で生まれてきちゃったのかな・・・
久しぶりに「感じた」。
あんなに悲しい寂しいかわいそうな両親の元に、こんな感じ方で、
あんなに、「何とかしたくて」「笑って欲しくて」「つながって欲しくて」がんばっちゃって。
自分で選んで生まれてきたのだから、仕方がない。
止められたのに、振り切って「挑戦」したのだから、仕方がない。

あきらめられる気がしないし、
敗れ去れる気がしない。
あまりにも愛されすぎちゃったからね。
この中に、もっと愛がふえ「ゆるす」こと
もっと巧みな者になるなら、
症状は、更に減るだろう。
そのためにどれほどまだ、悲しんで嘆いて怒り狂うかな。
何千年何万年の昔から、置き去られた「感じ」たちを救いだす。
それを怖れたら、この身体の、心の意味がなくなってしまう。

1000年か2000年経って、
もう今の日本語の書き言葉も話し言葉も失われ、
移民・混血がすすみ「日本」という国、「日本人」自体がいなくなった時代が来ても、
言葉や暮らし方ががどれほど違っても、
このことが「わかる」人が、必ず、いる。
全く同じ戦いを、まだ、している人たちが、必ず居る。
そんな気がする。


"嵐の中を濡れながら歩くのが好き"
そう言った、あの子のことを想いながら。私も今日は濡れて歩いたよ。
白いお洋服だったけど全く気にせず。
幸せだったとても。