記録 2018.12.30.〆どころじゃないw

*随分、寒いを感じられるようになってきて、寒いって感じるから、「こうする」ということが出来るようになってきたような。
(書いていても「は?w」なんだけど)
「自分が寒いと感じる」から、こういう服装をする。
「自分が寒いと感じる」から、ストーブをつける、エアコンをつける、そうしたら「自分ののどが乾燥してイガイガする」から、加湿器をつける。

というのを、「自分がそう感じるから」「そうする」というのがより自然に。
外から帰ってきたら、
手やのどにいろいろくっついた病気のもとに用心する意味で、手をあらってうがいをした方が、「気持ちがいい」
今までは、
気温が〇度だから、こういう時季は、「普通は」そうするものだ。
「みんなは」こうしてるんだから同じにするべきだ。
という感じの方が強かった気がする。

それがどれほど苦しいことか?
それがどれほど人生をつまらなくするか?

徹底して自分の感じ、好き・嫌いは持たない。
だって、母親に「寒いでしょう これ着なさい」と言われた時に、
もし私は「寒い」って感じてなかったら、
「いい、要らない」と言うことになって、
そうすると、お母さんは、「あらそう」と言いながらも「なんで?」って付け加えて不満そうになっちゃう。
それはいやだ。それはだめだ。
いつでもなんでもお母さんに合わせられる子じゃなきゃいけないんだから、自分の感覚なんて持てるわけがない。
寒暖ですらそうだったんだもの。
何かに対する意見。感じ方。
世界の見方。
まだどれくらい「残って」いるか?おぞましや。
別に、母だってこの娘を「そんな人間じゃないもの」に仕立てようとして意図してそんなコントロールしてたんじゃないだろうに災難だよなあ、こんな感じ方の娘が「あたった」んでは。
と いくらなんでも遠くの方で思ってるけどさ。

*でもやっぱり同じものを見て、他人の、自分とは違う感じ方、考え方、見えている範囲の同じでないこと
を感じるのは、「しんどい」(書きながら「それでよく人間やってられるね?」と思ってるよ、遠くの方で(- -))。
自分が間違っている、周囲の方が正しい。のではないか。を一生懸命考えて、「いや?」と頭で修正する。
私は、苦しむには、多くの視点を持ちすぎる。と思うんだけど、I'm holding too many views to suffer.
いや、多くの視点を自分なりに消化して自分のものにする過程がもう全く人に共感されない苦労なんだよなあ。そもそも。
そんなに多くの視点、考え方、感じ方なんて、普通は、持とうとしないもの。必要がない。
でも私は、自分の感じ方通りに生きる、表現する、という「普通」が出来ないから、
どうしても、人がそばにいたら、その人の感じ方、考え方、受け取り方を真剣に感じ取って、考えて、合わせようとしてしまう。
加えて、それが自分と違っていれば、自分の方を「修正」する必要を感じてしまう。
暑さ寒さからして未だにそうだ。
で、こんななのに誰かと一緒に暮らしたり、毎日集団行動、軍隊式みたいなところで生きていたんだよなあ10代20代のかなり多く。(- -)
まったくどうやって生きていたんだろうか。と自分でも思うw
そんな風に日々、念々を異常に「怯えて」生きていた私には、余りにも世界は乱暴で残酷な「普通の」人間が多すぎた、と思う。今更のように思う。
未だにいろいろ夢に見るよ。
「怖い」夢として。
痛みとか、体の中からいろいろな体液がどばっと出てくる感覚と似てる「怖さ」。(ドラえもんのび太が恐怖で失禁、みたいな画を想像しながら書いてますw)
一生懸命作りあげたもの。
守ってきたもの。想って、考えて、やっと差し出したもの。
をめちゃくちゃに破壊されたり、棄てられたり、笑われたり、叱り飛ばされたり、それも悪気100%なし!という恐ろしいめにあう夢。
根にもってんなあ〜もぉ、私。相手は憶えてもないのに。
ってちょっと笑っちゃうんだ。



*まあ なんか。いろいろ返信しなきゃいけないメールとかあるんだけどさ。何やってんだって思いながら書いてるよ。
かんべんしてください。すみません。追いつかない。
とほほ(・ +)まぁよく休め、自分、と。