記録 2017.01.01.また書くかも。

(-    -)・・・
なんか新年だし。
29日まで普通に仕事で、30日も31日も外出して。割と家でもワシワシ(あちこち掃除)・・・

にしても、書いてないと錆びつくもんなんだなあ。
読んでないと・聴いてないと・話していないと
も同様で。
言葉って面倒くさいな。
もうホント。「書くことを続けること」って大変なんだよなあ。
大切なこと、大切にしていきたいことのはずなんだけど、
また、往時の「わざわざ言葉にすること?」的キモさ・違和感が濃くなっていて、書けない。書かない。
で1か月くらい経ってしまったよ。更新しないと本当に無人島PV/day=0 or 1だなあ。
(-    -)
多くのブログで「今年はどうもありがとうございました」って締めてあってステキ。
何かの区切り毎に、さわやかに、ふわりと感謝。という習慣、いいよね。

*子供の頃よく母親に言われていた言葉に
「あなたも親になればわかるわよ」っていうのがあったんだけど、
幼い頃の母親の年齢に近づいてきて、
親になってないけど、「ああ、わかるかもしれない。てかわかりたくもないけど」
と思えること度々。
「自分が居ないと死んでしまう」
「真っ白な」
「自分が何を言っても『ね?』「ねっ?!』と言うと『うん、そうだね』っていつも返してくれる」
子供が、いつもそばに居たら。
それはもう。
愛されて満たされて自信満々に!!なっちゃうよねえ〜〜〜〜
夫と話が通じなくても、相手にされなくても、遊び歩いて帰って来なくても、
成長するたび、自分のことを分かってくれる、(生殺与奪を握っているから)何でも肯定してくれる「子供」がいつもすぐそばに居たら、楽しくてうれしくて幸せで子供が生きがいになってしまうよね。
私が、私の思うことを言うと「よくわからないわ」「変な子ね」
お母さんの思い通りにならないと、普段はやさしいお母さんが豹変して、キーキー怒る。
私はそれが本当に苦手だった。
「お母さんと違う感じ方、考え、好み」を持っている私は居てはならない。
何時でもお母さんと何を見ても聴いても同じ感じ方で、同じものが好きで・・・そうじゃないと、お母さんは笑っていてくれない。
今でも「あら何で?」あの不満顔は苦手。
だから、本当はそうは思ってなくても「そうだね」「うん」と返すダメな癖。母親以外ともね。
普通の子はそうじゃない。生まれた時からそうじゃない。
思ったとおりに感じ方を表現して、行動して、時には親を困らせたり、振り回したり、する方なのが親子の「子」なのだ。

*クリスマスは、年末年始は、10-20代の頃、「たくさん」男と過ごして来たけど、
それこそ、「悪い」けど、24日の午前は、午後は、夜は、25日の午後は、みたいな。東京大学物語(古っ)の佐野かよw
思い出したのは、毎回、毎回、「むかついてた」ってこと。
おしゃれして、きれいにして、会うとみんなすごくうれしそう。
会った時に嬉しそうな人は苦手。いや、もう、はっきりイラつく。
(もちろんそんなことは当時気づいてもいないが ただ、ぼんやりと「早く家に帰って過食したいナー」)
それは、私が、あんたの期待通りで都合に合わせてくれるからでしょう?!
そうじゃなかったら不満で、嫌になったり面倒くさくなったりするんでしょう?
母親以外の女、同性にはあまり感じないんだけど(「まだ」自覚していないだけだろうか)
道行くカップル達を目にして、この冬、特に強く思い出していたこと。
ま でも「自分死んでしまえ」ほど自責や罪悪感で「苦しい」ほどではなかったけど
薄っすら「とんでもねえ〜〜」「マジで(相手の男)気の毒だわ・・・」程度だったけど
本当に「歴代」の○○の方々には全力で申し訳がない。
こんなことに気づかないまま、結婚して子を産み、などしなくて、出来なくて、本当に良かった。幸運だった。
病気になれて、本当に、各方面ラッキーだったんだ、と思う。「反省」

*といえば、大銀魂展行って来たんだ。空知先生原画展。
12月31日(金)、日が落ちてから外出。
17時頃UDX秋葉原着。こんなに暗くて寒いのにすごい人!遠方からの人も多いらしい。キャリーケース持った人たくさん。
19時入場(20時閉場)の最後のスロットの整理券をもらったよ。
2時間、気温一桁の屋外待ちはしんどかったあ。ドンキとかフィギュア屋をうろうろしてました。
秋葉原って日本じゃないみたいだね、ドンキも聞こえてくる会話、中国語と韓国語ばっかりだったし、
掲示・商品説明・アナウンスも3か国語で日本語が聴こえて来ないんだけど。(もう巨大土産物店なんだ)
タリーズの隣のテーブルの女の子ふたりも韓国人だった。
相変わらずリスニングをしてしまいますね・・・(-    -)
断片的に分かってしまうレベルでは、聞き流すことも結構困難で苦しいんだよなあ。・・・もうちょっとレベルを上げるしかないんだが・・・ ・・・
銀魂展の入場説明(銀さんのコスした人だった〜☆キャリーを持った女の子に「きゃー銀さんー☆」って追いかけられてた。ぅわぁ。)が日本語onlyな方に違和感w
最初の最初から「きったねえなああ〜〜〜〜」(- ” -|||)
なんだよこの便器。銀さんの着物の模様がもうこの模様にしか見えないじゃないの。

アニメ画が殆ど無くて、生原稿がいっぱい見られて、大満足です。
基本的にシリアス回のメインシーンonly。(内心、あんまり好きじゃないきたないgdgdギャグ回ばっかりだったらどうしよう。って思ってたんだけど)
アニメ画の方が綺麗で構図も美しいのがいっぱいだけど、原作者画も「執念」が伝わって来ていいよね。
でも、照れ屋さん過ぎてそれはどうしても見せられないっていう。もう少しまっすぐ表現してくれてもいいのにな。どうしてこういつもgdgd長文や下ネタでぼかしちゃうかな。
「それがいい!」っていう人がすごく多いんだろうけどね。
デジタル原稿ではなくて、指定が水色色鉛筆で入ってたり、貼ってあるのに殆ど削られてしまっていて意味がないトーンとか、こんもり盛られたホワイトとか、いやでも線と髪ベタはすごく綺麗だったなあ。
ジャンプ「流」告知でも思ったんだけど、デジタルでも水彩(筆塗り)でもなくてコピックなんだね。カラー原画はもっと見てみたかったかも。(複製原画がショップで2万5000円だったsugee)
実写版とアニメ新章楽しみ!!
(全体的に温度が低いファンで申し訳ない・・・ 来場者の人がメッセージを残す長〜〜い紙が置いてあったんだけど、みんな絵うまいなあ。ソラで下描きなしで。本当に描き慣れてる。
 ピクシブでしか見たことのないような「熱」が伝わってきましたね!人がいっぱいすぎて私はかけなかったけど。土銀好きの女です!銀魂が私をオタクにしてくれました!空知先生銀魂を生んでくれてありがとう!万事屋よ永遠なれ!)

【ちょっと前に書いていたものから。gdgd--
 Perfect humanなんてそんなに良いものか??】
*なんで世間話をされちゃうんだと思います?
*どうして「下位の」横のつながりで「相談」し合ってしまうんだと思います?
つまり師、校長先生、社長、である、「万能で完璧な指導力を持つ」自分を飛び越して、横のつながりの人を頼ってしまうのだと思います?
私にはよく分かる、本当に悩んでいることの相談なんか出来ない。「頼れない」「頼ってはいけない」と感じてしまうので、世間話をしてしまう。
一言で言うと「お前が言うな」「お前には言われたくない」という「怒り」を回避するため。
「本当に相談したいこと」「問題だと思っていること」には触れられない。触れてほしくない。
私の場合は、最初の2,3回で自分から「相談」することはやめていましたが。
それでも「私の悩んでいそうなこと」に触れられ、相談のような体裁に持っていかれるとイラついたものです。
「いい加減なことを取ってつけたように言うのやめていただけませんか?」
どれくらいの人が、同じようなことで怒りを感じて来たことか?そして今もどこかで。

紹介された人の方を、「より普通の人」の方を、相談相手に選んでしまう理由もよくわかる。
普通の人の方が、まだまともな相談相手になると思う。
「眼」が少し人よりも良い。少し人よりも普通は視えないものが視える。だけで勉強も訓練も経験も蓄積なく、
人間関係の深さも広さも年齢相応ではない、
その言葉だけを額面通りに信じて、否定せずに受け取ってくれている人々をどれだけ尊重していると言えるんでしょうね?
「自分をどんな身内、友人よりも大切に優先して扱え」と、人には要求してますが。

ただ、ご本人様だけが、「自分の認識」と合わない事実を認められなくて、周囲を非難。
横のつながり禁止。まず自分を一番に扱うこと。****の秩序を守れ。と「条例」を制定。
こちらも「教祖様」の行動のテンプレ。
「教祖様」である、と自負する者。崇められてしまった者。の取る行動って、どうして何処でも規模の大小問わず、こう酷似するんだろうか。
嫉妬心、猜疑心、自尊心を傷つけられることへの、極度の恐れ。しか感じない、卑しさMaxの言動。

本当は人間です、なんて今更言えない。正体を暴かれることに怯える者。
いや、本当は、皆、程度の差こそあれ気がついてしまっている。
でも、誰も、気の毒過ぎて、言い出せない。
Perfect humanなんて、そんなにいいもんでしょうかね。
まさに「裸の王様」ではありませんか。
滑稽で、醜悪な、しかし、ズバリと言ってしまうには、きまりが悪すぎる。
だからこそ「お笑い」ジャンルの人からの発表だったのではないでしょうか。
「さあ人間どもよ、俺を称えろ。崇めろ」なんて。ただの人間が。

逆さに吊るされていた縄を足首から外した途端、「苦しさ」が取れ、ひっくり返って見える現実。
白と黒が反転して見えて来る、この感じ。
人が、「人でない」者を見る、見た感じが、誰と「共有」されるだろう。
私は、その時を楽しみにしていますけど。
人々が、それぞれに何百何千倍も勉強し、何万年も努力し築きあげてきた世界を否定し嘲るだけの、
「普通に悩み苦しみ必死に生きている」者達から搾取して生きているだけの、
「【自称】人でない」何か。
彼自身「だけ」が自分が、古今の予言に書かれた「***」であり「*****」だと吹聴している。
これが中学生とかだったらまだいいんですけどね。中二病ってやつだね。
ヒーローものや漫画や流行りの映画にすぐ自分を重ねちゃうところとか、
アイタタタ、20年後恥ずかしく振り返ったりするかな?って。
30-40になっても引きずっている人もたまにいるけど、それでも働いて家族を持ってたりする。
ちゃんと、ある程度は、現実との棲み分けが出来ているもの。
嫌でも鏡は見ているもの。死なない程度の我慢や努力はしなければならないもの。
それを見下して【自称】**の、アラフィフでニート歴20年近い住所不定の汚らしいおっさん。
自分大好きなんだ!!(吐き気)と思ったのは、PCの壁紙が自撮りだったから。

身内の人には、ちょっと、会ってみたいと思っていたりする。
ご両親とか、ご兄弟とか。どうしたらこんなの出て来ますかね。みたいな。w
まあ真剣に取り合って悩まれていたら気の毒だけど・・・ 既に諦めて見放して縁切ってる可能性も高い。
「より自由の身になれました」って「あっそう、そういうこと?」とちょっと思ったり。w
あなた何にも責任を持ってないのに自由って。それ以上自由になってどうするの。恥ずかしい。だらしない。とは思ったことを覚えてる。

新聞のコラムからいくつかおすそわけ。
池上彰さん:
(114)米国の選択(下) 国を支える多様な価値観
米国の大統領選挙の結果を見て驚いた人も多かったことと思います、という話をこれまで書いてきましたが、米国は実に多様です。大統領選挙の現地取材で地方を回ると、敬虔(けいけん)なキリスト教徒に出会います。とりわけ敬虔な人たちは「福音派」あるいはキリスト教原理主義者と呼ばれます。共和党を支持する人が多く、共和党に大きな影響力を持っています。
この人たちの特徴は、聖書に書かれていることが一字一句真実だと信じていること。『旧約聖書』には、神が人間を創ったと書いてあります。これを信じていますから、「人間は猿の仲間から進化した」などという進化論などはとんでもないということになります。
そこで、聖書が真実であることを実際に示そうと考える人たちがいます。こういう人たちが、「ノアの箱舟」を「再現」させたのです。題して「箱舟との遭遇」という施設です。場所はケンタッキー州です。
ちなみに「ノアの箱舟」とは、『旧約聖書』に出てくるエピソードです。地球上にはびこる人間どもが神を信じようとしないことに怒った神は、大雨を降らせ、大洪水を引き起こして人間たちを絶滅させようと考えます。
ただし、ノアという人物だけは信心深かったので、助けようと考えます。ノアに対し、洪水が起きても生き延びることができる箱舟をつくり、地球上のあらゆる動物を雄雌一匹(一頭)ずつ入れるように指示します。
ノアは指示された通りに箱舟をつくって生き延びることができ、ノアの一族が世界に広がって、いまの人類になったというのです。このとき舟に乗って助かった動物たちの子孫が、いまの動物たちというわけです。
その証拠を示そう。かくして誕生したのが「箱舟との遭遇」です。
もちろんすべて木製。幅26メートル、高さ16メートル、全長155メートルという巨大な建造物です。このサイズは、聖書に出てくるキュビトという単位を現代のフィートに換算して割り出しました。今年7月にオープンしたばかり。
中に入ると、ノアの一族が収容したとされる動物たちの檻(おり)が並んでいます。中には恐竜の模型も入っていました。
「人間と恐竜が共存?」。不思議に思いますよね。恐竜が生きていた時代と人間が誕生した時代とは大きく離れているからです。しかし、この展示物を建造した団体によると、天地創造からまだ6000年しか経(た)っていないのだそうです。恐竜と人間は共存していた。大洪水が終わった後、恐竜たちは滅びてしまったという解釈を取るのです。
施設には、平日だというのに大勢の家族連れが来ていました。恐らく、学校に通うと、進化論などを教えられてしまうので、自宅学習を選択した人たちでしょう。米国では、ホームスクーリングといって、教育委員会に届け出れば認められる制度があるのです。全米に100万世帯いるとされています。
施設を訪れた見学者にインタビューしてみると、「ノアの箱舟が実在したことを実感した」と感激する人たちばかり。福音派の人たちでした。
これもまた現代の米国の実情です。トランプ当選ごときで驚いていられないのです。

三越伊勢丹ホールディングス会長 石塚邦雄氏
●1世紀前の本に多くの発見〜経営統合前の三越社長時代、三越伊勢丹ホールディングス誕生に弾みをつけた本に出合う。
三井呉服店を百貨店の三越に変革した日比翁助という先覚者がいます。その口述による『商売繁昌の秘訣』を初めて手にしたのは2006年ごろでした。100年も前のものなのに、今も通用する内容に驚きました。実は本が三越にも無くてコピーを読んだのです。直ちに古書を探して、今は大切に保管しています。
巻頭言に「己(おの)れ利せんと欲せば、先(ま)づ人を利し。己れ達せんとせば、先づ人を達せしめよ。是(こ)れ商店の秘訣なり」とあります。書き出しはこうです。「昔と今とは商売の仕振(しぶり)が違って来た」。昔はマッチをくれときたら、マッチを渡せば、客は満足した。しかし世が進歩すると、客の要求は高まる。マッチに加えて「一服おつけなさい、御茶(おちゃ)を召し上(あが)れ」という具合に、もてなす必要がでてくる。また「射幸的方法に依る売出(うりだ)しは不可」と、福引や景品などに頼る商法を戒めています。
経営統合に合意した伊勢丹の武藤信一社長に日比翁助の話をしたら、武藤さんも興味を持ち『商売繁昌の秘訣』を読みました。「すごい本だ」と共感して、自ら感想を交えて書き留めたメモを私にくれたほどです。
日比翁助は、利益は新たな顧客満足のためにも投じるべきだと述べています。店づくりの基本も今と変わりません。「私がやってきたことと同じだ。統合でこれを目指そうじゃないか」と言う武藤さんと、思いは一緒です。心を一つに三越伊勢丹ホールディングスは生まれたのです。
人間性の本質を見つめながら、経営を考えている。
商売の原点は時代を超えて変わりません。社長になってから、最高の経営者だと思う松下幸之助の本を随分読むようになりました。
わかりやすく、心にすっと入ります。どこを開いても、考えるヒントがたくさん出てきます。例えば、『商売心得帖』には「利は元にあり」と、成功するにはまずよい品を上手に仕入れることからだと。
『実践経営哲学』は、成功したときは謙虚に「運がよかった」、失敗したら「原因は自分にある」と考えなさいと書いています。反省なくして進歩なしです。とかく「天気が悪かったから」とか他に原因を求めがちですが、たとえ不況でも「やり方しだい」だとクギを刺しています。
私が社長になったとき「具体的な指示を出してほしい」という声が現場から上がりました。社長がいちいち指図するのはおかしい。権限を委譲しているのだから「自分で考えなさい」と言いました。上を見る姿勢が身についた指示待ちの人は、自分で判断するのを避けます。もっと言えば自由に考えるのが怖いのです。
エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』が指摘している点と共通しています。人間は自由を与えられると、かえって重荷に感じて、逃れたがる。ヒトラーのような独裁者が生まれたゆえんです。会社の中でも、同じようなことが起きます。
●楽しむ本や知的興味を満たす本も幅広く読んでいる。
私は乱読で、中学3年くらいから、シャーロック・ホームズに始まって海外のミステリーを読みあさってきました。ディック・フランシスの作品は全て読みました。作家は元騎手で競馬にからむミステリーです。
三井住友トラスト・ホールディングスの北村邦太郎社長が、マイクル・コナリーを好きだと知って、会った時に「私も全部読んでいますよ」と申し上げたら、話が弾みました。北村さんと海外ミステリーを語る会を作り、今では同好の士を集めて定期的に、わいわいやっています。
海外小説で1冊を挙げるなら、カズオ・イシグロの『日の名残り』です。英国で執事の仕事に没頭してきた主人公が旅に出て、最後に夕暮れ時の桟橋で、ある男から人生に重ね合わせて「夕方が一日で一番いい時間だ」と語りかけられます。悔恨が多少あろうとも、晩年が一番いいと言えるようになりたいものです。
今年読んだ中では、関川夏央の『人間晩年図鑑』が最もよかったですね。著者は私と同じ年生まれの団塊の世代で、取り上げている人物は、同時代をともに生きた人たちです。
田中角栄オードリー・ヘップバーンハナ肇は同じ93年に亡くなったのかなどと思いつつ読みました。私も晩年に近づき、それぞれの最期や人間模様に興味が尽きません。
(聞き手は森一夫)
【私の読書遍歴】
《座右の書》
『商売繁昌の秘訣』(日比翁助述、菊池曉汀編著、大学館)
『商売心得帖』(松下幸之助著、PHP文庫)
《その他愛読書など》
(1)『自由からの逃走』(エーリッヒ・フロム著、日高六郎訳、東京創元社)。大学入学直後に読み感銘。
(2)『興奮』(ディック・フランシス著、菊池光訳、ハヤカワ・ミステリ文庫)
(3)『日の名残り』(カズオ・イシグロ著、土屋政雄訳、ハヤカワepi文庫)
(4)『人間晩年図鑑』(1990―94年と1995―99年の2巻、関川夏央著、岩波書店)
(5)『横しぐれ』(丸谷才一著、講談社文芸文庫)。こうした小説以外に、評論、エッセーなど、ほとんどを読んだ。80歳を超えた人とは思えない若々しい文章を亡くなるまで書き続けた点に魅力がある。
(6)『本を読む本』(M・J・アドラー、C・V・ドーレン著、外山滋比古・槇未知子訳、講談社学術文庫)。若いころに読んでおきたかった。
いしづか・くにお 1949年生まれ。72年東大法卒、三越入社。2003年執行役員、05年社長。08年4月三越伊勢丹ホールディングス社長、12年2月から現職。

慶応義塾大学教授 権丈善一さん:
公的年金保険の誤解を解く(1)多くの日本人は貯金と勘違い
日本の人口の高齢化は今後も進行し、日本は大変な高齢社会を迎えます。65歳以上の人口比率は2016年の約27%から、60年ごろには40%になると見込まれています。
高齢期に必要となる医療や介護、そして年金などの制度は、日本では基本的に現役のうちは引退世代の給付を負担し、自分が高齢期になると現役世代から給付を受けるという、いわゆる賦課方式を採っています。
こうした制度は、今後の超高齢社会では維持できなくなるのではないかと不安に思う人も多いかもしれません。そこに「少子高齢化の影響を全く受けない方式があります。それは現役期に自分で将来必要となるお金を積み立てておく方式のことです」と言われれば、飛びつきたくなるのも分からなくはありません。過去には実際、年金財政を積立方式にすべきだという議論が盛り上がったこともありました。
しかし、本当は、少子高齢化の影響を全く受けない年金などあり得ない話なのです。ところが、積立方式の確実性を主張する有識者もいるため、それを信じる人も絶えないようです。
この連載では、そのあたりの誤解を解くためのキーワードとなる「Output is central(生産物こそが重要)」という考え方を軸に公的年金保険に対する誤解について論じていきます。なお本連載では可能な限り、年金のことを正確に「公的年金保険」という言葉で呼ぶことにします。この公的年金保険を、お金が積み立てられる貯蓄と勘違いされると、議論のスタート地点から話がかみ合わなくなるからです。
ちなみに年金は、1959年までは厚生省(当時)の中の保険局の中で、医療保険と一緒に扱われていました。皆保険、皆年金の施行を前に、年金部門が保険局から独立し、年金局が創設されたという経緯があります。その時、一方を皆保険、もう一方を皆年金と呼んだために、半世紀以上たった今では、日本人の多くが公的年金は保険であることをすっかり忘れてしまったようなのです。

公的年金保険の誤解を解く(2) 金銭ではなく生産物が重要
2013年1月、東京で開催された国際通貨基金(IMF)の公的年金に関するシンポジウムで、これまで社会保障研究に多大な貢献をしてきたニコラス・バーLSE(ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス)教授は、研究者には周知でも、一般にはあまり認識されていない事実を強調していました。
「生産物こそが重要(Output is central)であり、年金受給者は金銭に関心があるのではなく、食料、衣類、医療サービスなどの消費に関心がある。鍵となる変数は将来の生産物である。賦課方式と積立方式は、将来の生産物に対する請求権を設定するための財政上の仕組みが異なるにすぎず、2つのアプローチの違いを誇張すべきではない」
ニコラス・バー教授は年金制度の設計方法として、(1)現在の生産物を蓄える(2)将来の生産物に対する請求権を設定する――の2つを挙げます。
まず(1)の、将来の消費のために現在の生産物を蓄えることが可能かどうかを考えてみましょう。30年後にパソコンを使いたいから、押し入れにしまっておく。過去数十年間のパソコンの進化を考えれば、そのパソコンは30年後には使いものにならないでしょう。では30年後に床屋に行きたいから……。さて、どうすればいいのでしょうか。
やはり、30年後に消費する財・サービスは、ほとんどが30年後に生産される必要があり、蓄えておくことはできそうにありません。生産物は積み立てられない。この当たり前のことが極めて重要なポイントとなるわけで、将来の消費のために現在の生産物を蓄えるという選択肢は現実的ではなくなります。
そこで、将来に生産される財・サービスに対する請求権を事前に公的に約束しておく方法が、どの国でも採用されることになりました。そうした長期にわたる公的な取り決めが公的年金ということになります。
こうして我々が公的年金の役割を論じる際にしばしば用いる「人々が高齢期に貧困に陥らないように、現役期に、将来の生産物への請求権を確保するための公的な取り決め」という公的年金の定義が生まれます。

公的年金保険の誤解を解く(6)未納増加でも破綻せず
日本の公的年金保険は、バッファーとして微妙に積立金を持つ賦課方式です。これが次の2つの誤解と関わります。
(1)未納が増えると年金が破綻する
(2)2009年財政検証時の積立金の名目運用利回り4.1%の想定は高すぎる――。
(1)の未納による破綻論は未納分を厚生年金が肩代わりしているという論とともに昔からよく見かけます。しかし、日本の年金には積立金があるので、未納者による未納分の保険料は、積立金で立て替えることができます。そして、公的年金は保険方式のため、未納者には将来、給付が行われません。
つまり積立金による立て替え分を将来、“取り戻す”ことができます。だから保険料を払っている人の年金が破綻することもなければ、厚生年金が未納者の保険料を肩代わりすることもありません。もちろん、無年金・低年金者が出ないように未納対策にしっかり取り組む必要はあります。
(2)の名目運用利回りの想定は高すぎるとの批判は、微妙に積立金を持つ賦課方式の年金について理解しているかどうかの試金石となります。賦課方式の公的年金には、賃金の伸びが高いと給付水準も高くなり、賃金の伸びが低いと給付水準も低くなる自動調整メカニズムがあります。年金財政への積立金の貢献は、名目運用利回りから名目賃金の伸び率を引いた「スプレッド」が果たすため、運用実績はスプレッドで評価されることになります。
09年の財政検証時、名目賃金上昇率の想定は2.5%で、運用の目標値であるスプレッド1.6%と合計した4.1%という数値が独り歩きしました。しかし実際には、次の14年財政検証時から過去8年間の名目運用利回りは2.32%でしたが、名目賃金上昇率が0.46%低下したため、スプレッドは2.78%となり、目標値の1.6%を大きく上回りました。09年の名目運用利回りの想定は、過大ではなかったのです。
バッファーとしての積立金を持つ賦課方式であることが制度理解を難しくし、「未納で年金が破綻する」「運用利回りの想定が高すぎる」といった批判が相次ぎ、国民の不信感を高めたのは残念なことでした。

公的年金保険の誤解を解く(7)長生きがリスクでない社会に
前に触れたニコラス・バー教授は、年金財政問題の解決策には次の4つしかなく、これらが含まれていない年金財政改善策は幻想であると論じています。それは、
(1)年金月額の切り下げ
(2)年金月額が一定のままでの支給開始年齢引き上げ
(3)保険料引き上げ
(4)国内生産物の増大――の4つです。
「Output is central(生産物こそが重要)」の観点から、生産物の増大が年金財政を改善する政策であり、積立方式への変更などは本質的な問題でないことも分かると思います。ここでは支給開始年齢の引き上げに触れておきます。
日本は2004年の改正で保険料引き上げを選択肢から外しました。その意味は重大です。17年9月以降は保険料水準が固定され、入ってくる財源の範囲内で給付が行われるように、時間をかけて年金月額が自動的に調整されていきます。ニコラス・バー教授の挙げた「支給開始年齢引き上げ」による財政改善は、保険料水準固定方式の日本やスウェーデンには、長期的には関係ありません。
日本の公的年金は60歳までの繰り上げや70歳までの繰り下げ受給が可能で、実質的には60歳から70歳の間での「受給開始年齢自由選択制」です。そして60歳での給付水準を1とすれば、70歳で受給できる水準はおよそ2倍へと増えます。
公的年金保険の主な役割は、一人一人がいつまで生きるか分からず、老後の生活費としていくら準備しておけばよいのか分からないという長生きリスクへのヘッジです。このリスクに保険というリスク分散の技術を利用しながら、一定の所得を終身で保障するのが公的年金保険です。
今後重要なのは長生きがあまりリスクとならない社会を作ることです。国民一人一人が可能な限り長く働き、年金はできるだけ66歳以降の繰り下げ受給を選択し、より充実した年金とともに引退期を迎えることができるように制度や慣行、意識などを変えていく。そのために大切なのは、国民が制度について正確な知識を共有し、建設的な議論を行うのに必須の、健全な世論が形成されることです。

けんじょう・よしかず 62年生まれ。慶応大博士。専門は社会保障政策

◆すごく古い雑誌の切り抜きにFishapodの話があったので。2億7千万年前(デボン紀)に生息していた、魚と哺乳類の共通の祖先と考えられる四足動物。
カナダ北部って、その頃は赤道付近にあったんだねえ。(大陸が移動しているため-ウェゲナーの大陸移動説(1912)-1.5億年かけて大陸が移動してるgif画アリ★)
Tiktaalik is a monospecific genus of extinct sarcopterygian (lobe-finned fish) from the late Devonian period, about 375 Ma (million years) ago, having many features akin to those of tetrapods (four-legged animals).
Tiktaalik has a possibility of being a representative of the evolutionary transition from fish to amphibians. It is an example from several lines of ancient sarcopterygian fish developing adaptations to the oxygen-poor shallow-water habitats of its time, environmental conditions which are thought to have led to the evolution of tetrapods.
It and similar animals may possibly be the common ancestors of the broad swath of all vertebrate terrestrial fauna: amphibians, reptiles, birds, and mammals. The first well-preserved Tiktaalik fossils were found in 2004 on Ellesmere Island in Nunavut, Canada.

Continental drift is the movement of the Earth's continents relative to each other, thus appearing to "drift" across the ocean bed.The speculation that continents might have 'drifted' was first put forward by Abraham Ortelius in 1596. The concept was independently and more fully developed by Alfred Wegener in 1912, but his theory was rejected by some for lack of a mechanism (though this was supplied later by Arthur Holmes) and others because of prior theoretical commitments. The idea of continental drift has been subsumed by the theory of plate tectonics, which explains how the continents move.
In 1858 Antonio Snider-Pellegrini created two maps demonstrating how the American and African continents might have once fit together.

★末筆になりましたが、昨年中はいろいろとどうもありがとうございました。本年もよろしくお願いいたします。
(-    - ;)