記録 2016.10.01.もそもそ。

*1週間くらい前、何か知らないけど小さなアリ(1~2mm)がよく、家の中に見かけられてね。
それはたくさん掃除しましたよ。アリの通り道にはアリしかわからないにおい物質がつくからね。アルコール拭き。陰になるようなものを片付け。
普通だったら絶対見もしないだろうっていうような細かい所の古い、固まった汚れをよけて、
目を皿のようにしてスキマがないか観察。
家にいらっしゃる虫さんは本当によい「ホウキ」であり「掃除機」なのであります。
別に動物を飼っているわけでも小さな子供がいるわけでもないけど、
なるべく薬は使いたくない。巣ごと壊滅させる毒餌など、最終手段だわ自分的には。ブルブル。
ムカデが入ってくるくらいなんだから、そんなスキマ、楽勝だろう。
ネイルカラーやらテープやらでたくさん目張りしましたよ。
いろいろ調べていたら、
別にエサなどなくても、掃除をしていても、出るときは出るのだそうだ。
朝も晩も、「ここには、エサは、ありませんよ〜〜」ぶつぶつ言いながらごしごし。ごそごそ。
賢いよなあアリ。まだ随分埋め残したスキマはあると思うんだけどまったく見かけなくなったよ。
勤勉で、力持ちで、根性があって、種によっては肉食で凶暴で、(もしアリさんと人間が同じ大きさだったらまず素手では勝負にもならないレベルでしょうね!)大家族で暮らし、団結が得意。
自然界では、アリは敵に回してはいけない、逆に、味方につければいろいろ有利。(守ってもらえる、育ててもらえる、おこぼれにあずかれる)という種族なのだそう。
植物(菌類)も動物(虫たち)も長年、アリさん一族とは手を組みたがっているそうです。
仲間の死骸を運んでいく様子、なんとなく人間に似ているような・・・
(なぜか思い出すのは原爆投下3日後のヒロシマの航空写真)

*昼間、表を歩いていたら、消防署の前で、消防士さんたちがトレーニングしていたよ。
コーンとコーンの間をダッシュ。気合の入った掛け声。
Firefighters. 平時から訓練を欠かさないのですね。すばらしいなあ。

*なんでもかんでも「面倒くさい」んだなあ結局。
やってしまえば「たったこれだけ」なんだけど、何だか知らないけど「ふうふう」言いながらやってる。
身体は使いたくない。手は動かしたくない。時短たって節約した時間でやりたいことなんて結局寝てゴロゴロ以外にないのよ。そんな怠惰懶惰のワタクシ。
ということを、手を動かしていると、何でも細かいところまで「ちゃんと」やろうとすると、「気づいて」しまう。
ホントは面倒くさがりでナマケモノなんだって。
それがいやなんだよな、つまり。
ふへぇー。
人間らしくていいじゃない。感じることを恐れるな。っと。
(-    -)

*土曜日なのに8時から外出して3つも4つも用事を済ませてきたよ。
ふへえ。もう寝ます。偉そうだけど、面倒くさいと言い訳ばかりですよっと。(いつもだ)

◆横田 南嶺さん(鎌倉円覚寺管長):
この頃よく「ゴミ屋敷」なるものが報道されているが、家のゴミはよく見えても、心中のゴミにはお互いに気づいていない。
心の中にゴミが一杯詰まっている状態が迷いであり、ゴミが片付いて綺麗になったのが悟りであり、本心即ち仏心である。
近年もある禅僧は、つねにあなた方の心はゴミ箱のような状態だ。ゴミを片付けろ、綺麗にしろと言って坐禅の指導をなされていたという。

目に見えるゴミは気づきやすいが、心の中は見えないだけに気づきにくい。
しかし、静かに坐って自己の心を見つめてみれば、心中雑念妄想の多いことに気がつくだろう。
ゴミを片付けるように、要らないものを捨ててしまうことが必要である。
「既往(きじゅう)は咎(とが)めず」と『論語』にもあるように、もうすんだ事をいつまでも思い続けては仕方がない。すっぱりと片付けてしまう。
まだ先のことも取り越し苦労をしては意味がないので切り捨てる。
そうしてただ今のことに集中する。
坐禅中は「数息観」といって自らの呼吸を数えることに集中する。
息を数えることだけに集中すると、余計な考えは自然と消えてゆく。数だけになってしまう。
そうして今のことだけに集中する時間を持っていれば、自ずとさっぱりとした心境になる。
自然と本来の心がはっきりしてくる。本来の心は清浄であり、明るく爽やかなものだ。

◆川口雅昭さんの『吉田松陰修養訓』から:
【語録】大行は細謹を顧みずは勿論の事なれども、小事却つて大害を為す事もあるなり。
嘉永5年(1852)5月某日 山縣半蔵宛
【訳】大きな仕事をする時には、些細なことなど気に懸けないのはもちろんである。しかし、その些細なことが大きな害を引き起こすこともある。
【解説】これは何も仕事のことだけではなかろう。人間の生き方においても同様である。
確かに我が国には、小事を気にしない人を度量のある人物と見る文化がある。
しかし、日々の小事の積み重ねが人生であることを思えば、決して疎かにはできない教えであることが分かる。
今の私にとって「大行」とは松陰という青年を知りたいという願いだけである。
よって、小事は日々の研究。
簡単にいえば、定刻に机に着き、勉強することである。
そのための、サボりたい、遊びたいという感情・欲望のコントロールである。
これが情けないことに、歳を重ねるにつれ、少しずつ努力を要するようになってきた。
こんな人間がまだ教壇に立っているとは。反省。
今も、今日は授業が多かったからなどと、自分に弁解をくり返しながら、何とかしてサボろうとしている自分がいる。
若い頃から、自分の感情・欲望をコントロールできない人間に大きな仕事などできないと頭では分かっていたのに。「大害」だけは何としてでも避けたい。心の鍛錬からやり直す。