記録 2016.07.21.Perpetua monumenta.

*ラテン語

*勇さんと同じ、私も毎日書きたいなあ。
想うこと。は、いっぱいあるんだよ。
言葉にも、したい。しなきゃって思うんだよ。
夜を静かに過ごせて、かなり難しい文章も腰据えて読めるようになって来てて、
なんかあっという間に12時になってて、って。
普通!幸せなことなはずなんだけどな。
あれもこれも。不服不満「ちぇっ」のオンパレードですか結局?うーん。

*おそ松さん。(ホントなんでもかんでも周回遅れだなw)
BL松もイイけど。一カラってすごい人気なんだね。カラー松、色松とも。
私はトド十やおそカラも好きです。
松代さんで。六つ子が生まれたよ

*五度圏について調べてたら、
今更のようにスケール練習がしたくなったよ。
バーナムピアノテクニックの本欲しいなあ。
ピアノがない(-    -)

*メールどうもありがとうね。

◆佐々木 隆さん。(ジェイティービー相談役)
いま私が若い人たちに伝えたいのは、
「腑に落ちた知識は、絶対に自分を裏切らない」ということである。
二十代というのは、会社や組織の中で様々な雑用や下積みをやらされるものだ。
その時、自分にとって何が本当に必要なのか分からなくて迷ったり、
自分の将来に関係あるのだろうかと疑問を感じて中途半端になる人が非常に多い。私自身がかつてそうだった。
また、若い時は研修やセミナーを受講する機会も多いだろう。
その場では納得して帰ってくるのだが、覚えているのはせいぜい一週間程度で、自分の仕事に生かせていることとなると極めて少ない。
それは結局、知識が腑に落ちていないからなのである。
では、いかにすればよいのか。
ごく些細なことでいいから、一つのことを徹底的に何か月も考えを巡らせる訓練が必要なのだと思う。
ある程度の確信を持ったら、今度はその知識を自分の言葉で人に話す。
相手の考えも聞き、さらに深める。
そのサイクルを積み重ねていく先に、間違いなく自分を裏切らない、自分を救ってくれる腑に落ちた知識の獲得がある。

ここではもう一つ、大事なことを付記しておく。それは、
「現在に生きろ」ということだ。
まだ来ない明日のことを考えて不安になったり、
過ぎ去った昨日のことを考えて後悔するのではなく、
きょう一日に集中する。
きょう一日に集中し切った人、つまりいま目の前にある仕事、環境、知識を最大限生かした人が必ず成功者になるのだ。

ゆえに、いま学んでいることやいま携わっている仕事が未来の自分にとって役に立つか否かを考えるのは、全く意味がない。
いや、むしろマイナスに働くと思う。

横田南嶺さん。(円覚寺管長)
仏教の死生観を説明する時に、よく用いる話がある。
ある僧が、小3年の時、結核にかかり休学して病床に伏したという。
まだ結核が死の病と恐れられていた頃である。
幼い心にも「このまま死んでしまうのでは」という恐怖感を抱いた。
ある時には、暗闇の古井戸に落ちていく夢を見て悲鳴を上げて目を覚ましたりしたという。
死の恐怖である。
そんな折に寺の住職である父が、優しく背中をさすりながらこんな風船の話をしてくれたという。
「赤い風船が針で刺されて破れても心配はいらない。
中の空気は外に出て行き、お空の空気と合流するだけ。
いのちも同じで人は死んでも終わりにならない。
大きないのちと合流し、また新しいいのちが生まれる」のだと。
人が死に直面してはじめて、いのちとは何かを真剣に考える。
死は喪失であり、敗北ならば、恐ろしいばかりであるが、大いなるいのちと一つなる、
永遠なるものとつながっていると気づけば、死の恐怖感からも解放される。

円覚寺の朝比奈宗源老師も幼い頃に両親を亡くされて、死んだ親はどこに行ったのか子供ながら求められた。
お寺にお参りして、涅槃図(ねはんず)を拝んで、お釈迦様は死んでもしなないという説明を受け、
死んでもしなないとはどういうことか明らかにしようと出家して坐禅された。

そうして長年の坐禅修行の結果悟り得た、死んでもしなない世界をこのように分かりやすく表現されている。