記録 2016.04.18.

*家に入れない。
電気がない。ガスがない。水がない。お湯がない。
スマホに充電できない。お風呂に入れない。食料が不足しているが、道路が寸断されていてなかなか届かない。
仕事は?会社はどうなったんだろう?
あ。また。うわああ。
1日に何回も震度6で、しかも震源がそろりそろりと移動していて不気味だし。(家に近づいて行っているような人は特に)
さしもの日本の建築も震度6が数日のうちに3桁に達するでは・・・

救援活動をしている人々、報道機関の人も大変だ。

って、自分とこだって、明日どころか今この瞬間にも「そんな」ことになっても何も不思議じゃないのだ。
日本は日本中、いつでも、「そういう」エリアなんだ。
そういうところに、何千年も住んできたのが日本人なんだ。

余震の回数は異常だけど、津波原発問題がないのだけは、不幸中の幸いだね。

*新聞の文化面に作家さんが寄稿してた。1982年生まれ、私よりも年下なのね。
これからどんどん、自分よりも年少ない人が、大切なことを話してくれる記事も多くなるんだろうなあ。
歳が多い少ないってそんなに大したことですかね?
子どもに、教育を、大人の毒に晒されないよりよい環境を与えるのは、歳の多い者の務めであるとしても、
歳が多いから少ないから「偉い」とか「譲られるべき」とか「立てられるべき」ってないよね。
子どもは、周囲の大人の思うようになるべきもの、じゃないよね。
大人の言うことをきかなきゃ、ごはんも、寝る場所も着るものもない。
思い通りになるから、おいしいごはんときれいな服、やさしいお母さんが居てくれる。
それは、違うよね。
生まれる前に、どんなものになりたいかなんて、だいたい決めて来てるものなんだ。みんな。わざわざ言わないだけだ。
「子供」とは絶対に言わず「小さい人」と言って大切に接したという教育者があったという。

*おすそわけ。滝口悠生さん。
なんとなくだけど、一緒にしたら失礼だけど、私のだらだら書く長文の、「わざわざ言うことか?」的な雰囲気がとっても好きになったので。
重要なものばかり。言葉で表現できるものばかり。それはつまんないよね。無用の用。空白の用。うんうん。みたいな。

その取材や急に増えた原稿で忙しくしていて、「主夫」みたいな生活になったのはここ最近のことだ。落ち着いたらここを掃除しよう、ここを模様替えしよう、などと思っていたのに、いざ落ち着いてみても全然何もできないのはどういうわけか。

私のやる気不足と要領の悪さが最大の要因であることは間違いないのだが、たぶんそれだけでもなくて、家事というのはそうやって時間や労働力だけでは計れない、奥深い大変な仕事であるなあ、と日々実感している。
なにしろきりがない。たとえば部屋に掃除機をかけながら、いったいどこまでかければいいのかを考える。床の開けたところはよいが、棚や冷蔵庫の脇、壁に接したテーブルの脚と壁の隙間にはたしかに埃(ほこり)がたまっているのだが、そこには掃除機が入らない。家具を動かしてそこも掃除機をかけるべきか、今日のところは掃除機の先端部が届く範囲で済ませるか……。

で、だいたい後者になる。部屋はひととおりきれいになるし気持ちよいのだが、埃を残したあの部分のことが心中にはしっかりと刻まれる。炊事、掃除、洗濯などさまざまな作業ごとにそういったやり残しが必ずあって、まさに壁際の埃のように日々積み重なっていく。その尽きなさが毎日の家事へと私を向かわせているのか。

積み重なるものはネガティブなものだけではない。毎日手を触れ、目を配っている家の各所や家具、調理器具との間には、日々親しみや愛着が育まれていく。フライパンと鍋は加工が剥げていてすぐに焦げ付くし、柄もネジが緩んだまま締まらなくなっているので買い替えようと思いつつ結局六年間そのまま使っている。

なぜ早く買い替えないのかと妻は言うのだが、私の料理は、そのフライパンの焦げ付きやすさや、がたがたする鍋の持ち手も含めた作業なのだとしか思えないところがあって、なかなか買い替えに踏み切れない。いろいろ検討はしてみるのだが、その私と鍋がともにした時間を含めて比較してしまうから、今の鍋の代わりになるような新しい鍋が見つかるはずがない。鍋の買い替えというやり残しは引き続き心中に居座ることになるが、使い慣れた鍋が今日も私を料理に向かわせる。

家にいる時間が長い自分がそうやって家事に取り組むことはごく自然で、自分でもその方が楽なのでそれ自体には何の不服も不満もない。が、妻が包丁の切れ味の悪さや、鍋のぼろさを悪し様に非難して、早く買い替えよう、などと言うとき、私の方はちょっと感情的になる。お前にこの鍋の何がわかる、と言いたい気持ちにもなるのだ(言わないが)。

そういうふうだから私は家事従事者として要領も出来もよくないけれど、やっぱり家事をするのは好きだ。そういう鍋や掃除機、床や台所のシンクや洗濯物干しと毎日接しながら時々感じるのは、生活というものの大半が、何の理由も意味もない、ただ実態だけの積み重ねであるということだ。生活に意味が与えられるのは、それがある時間の連なりや蓄積とともに何らかの実感(私が鍋に抱く愛着のような、あるいは反対に、深いため息を伴う徒労感のような)がもたらされる時だろう。

けれども実際の毎日の家事労働には、もっと何ものでもない、名づけえない時間がたくさんある。そういう、どうとはうまく言えない、けれどもたしかに毎日毎日繰り返される時間のつかみがたさのなかに今自分がいるなあ、という気づきのようなものが、小説家としての自分にとってとても貴重だと思う。そういう時間は、言葉にしづらい。たとえば日記をつけていても、そういう時間はなかなか記述されない。小説家の仕事は、言葉にしづらいことや時間、まだ言葉になっていないことや時間を、どうにかこうにか言葉で以(もっ)て人に呈示することであると思うから、そういう気づきの感触を覚えておきたい。

会社で働いていた時も、その同じ感覚はあったような気がする。働いている最中に訪れる、楽しみにも、不満にも、徒労感にも分類できない、真空状態みたいな瞬間。やっぱりそれは仕事をしていた頃の記憶としてきちんと定着していない。仕事場ではより意味や成果へと意識は向いているから、直接意味や成果に結びつかない時間は記憶や記録から漏れがちだ。けれどもそういう時間がその仕事場にはたしかにあり、また自分の人生のうちにもたしかにあるということはそれだけで尊い。家事をしながらそういうことも思う。

意味や成果が重要であるということと、重要なものだけ見れば他は見なくていい、というのは全然別のことだけど、うっかり一緒にしがちで、そうすると家や仕事場が重要なものだけで埋め尽くされてしまう。それはつまらない。

*つっこまないぱっつあんいいよねえ。四天王編でも思ったけど。いいなあ万事屋。
「あんたそれでも坂田銀時かよ
 何度大切なものを取りこぼそうと
 何度護るものを失おうと
 もう二度と何かを背負い込むことから逃げない
 そう旦那さんに誓ったんじゃないのかよ!?
 いったん護ると決めたものは絶対に護り通す
 それが坂田銀時じゃないのかよ!?
 僕らは死なない
 あんたは死なない
 なぜならあんたが僕たちを護ってくれるから
 なぜなら僕らがあんたを護るから
 それが万事屋じゃないんですか
 そうやって僕ら三人今までいろんなもの護ってきたんじゃないんですか」

*トパーズスタイルかわいいなあ。必殺技えげつないw
*なんか今期はガメッツがイイと思ってしまう。