あったかくして、ゆっくり、休もう

いつもの、帰りの電車から見える夜景に、青いきれいなイルミネーションを発見!
「この冬一番」と言われた、キンッと冷えた空気・・・に、すごくよく「似合う」LEDの青。
涙が出そうになって、
この朝、雪でも降りそうな、薄紫のどっよーんとした空を見てうんざりして、
「今日もすべての感覚が鈍るなーヤッテランネ」なんて思ったけど、
少し、心と身体の感覚が、敏感さを取り戻したかもしれない?と感じた。

夏の終わりが遅くて、きんもくせいの匂い始めるのが遅くて、
それから何週間も、もう、本当に鬱っぽくて、仕事に行くだけで精一杯なのに
症状が戻ってきて・・・なんだかあっという間に冬になってしまったような。
お風呂がどの季節よりも幸せ、
灯油ストーブの前があったかくて快適、
ドライヤーのちょっとほこりっぽいにおいが好き。
出してきたての綿毛布とタオルケットも寝床に+(昨夜から)。
寝具は、綿100%の素材の、ちょっとひんやりする感じが好き。
細かい毛玉が出来ないし、洗濯を繰り返しても縮まない。
ちょっと高価だけど、こだわり。




ちゃんと自分の頭で考えることが出来る子なんだなあ、と思う。
そういう子は、あの人はあんまり好きじゃないと思うな。
基本、あの人は女の人がきらいで、女の人をばかにしてるところがあるからね。
能力が高くて、学歴や職歴が立派で、
ご実家やだんな様がお金持ち、という女の人なんて、
さらに嫉妬心から、「好きじゃない」。
それは、センターにつながる人みんな、感じ取ってると思うんだ。
この病気の子は感受性が高い。
だから、隠してはいる(と期待する)、けど、どうしても感じ取れちゃう。
それが耐えられるかどうか。
感じ、表現しては、「修正」されることと思う。
それは、「回復のためにはマイナスだ」と。
それに、耐えられるかどうか。
に、「センターにいられるかどうか」のすべてはかかっている。と思う。

鬱と摂食障害の親和性(?)が高い(同時に存在することがおおい)ように、
宗教と依存症の親和性も高いと思う。
センターは、一種の宗教のようなところがある、と今は思う。
適量なら薬になるが、度を越せば人生全体を長期的に破壊するかもしれない。
と、センターから完全に離れて2年2ヶ月目の今の私は、思う。

センターとつながっていて、症状が出なければ、いいの?
症状が出ていても、センターとつながっていさえすれば、いいの?

想像だけれど、現在のセンターでは、普通の企業で、フルタイムで働くことなど、認められない。
パートやアルバイトさえ可能かどうか?
完全な無賃で、センターの活動を、フルタイムでしなければいけない。
(2003年頃のセンターでは、スタッフに給料を払っていたそうだけれど・・・
 少なくとも私がいた頃のセンターでは、交通費も出ていなかった)
結婚している場合を除き、男女交際も禁止。
それで、有料でセンターの面会に参加する場合の、10倍ほどの時間が、回復にかかるのだという。

今センターで言われていることは、また違っているのだと思う。
私はこの人の現在の症状も、
原因の部分になっているであろう過去の家庭環境も、
現在の経済的な状況も、殆ど、知らない。
だから、私は、どうするのがベストか、判断しかねる(頼まれたわけでもないけれど)。

センターとつながって3年目になる冬に、
「アートちゃんは、心の問題が複雑すぎて、センターでは回復させられない。
 これ以上センターにいて、悪化しても責任がとれない」
と言われても、センターにい続けた私は、
(センターにとっては「誤算」だっただろう)
相当(自身のマグマ排出以外の部分で)恐ろしい思いをした、
酷く傷ついた、怖いものをみた、醜いものに触った・・・
けど、反面、この病気の子たちの、それを支える家族の方々の、
心の美しさや強さにも、たくさん触れる機会に恵まれた。
怒りや嫉妬から「一生病気でいればいい」
「大変な人生の方を、を選んだ」
陰で平然と切り捨てたり、侮蔑したり、説教して「修正」する者のあることへの思いも、
忘れることが出来ない。
そしてかつては私もそんなであったことの恥ずかしさや悔恨も。

彼が犯罪者だろうが、過去に何をしていようが、
直接の利害関係者に対してどんな言動があろうと、
摂食障害の者を、その「不便」から確かに救って、
普通の世界に帰してくれる者ならば、
そこで治れ、何があっても治るまで、彼から離れるな。と、言いたい。
言える私で、居たかった・・・という思いはまだ残る。
7年前の夏、27歳だった私が、有料の面会に参加できなくなる頃、
「ひろ先生を、最後まで、信じたい」
毎日のように言葉にしてたことを思い出す。
「相談前」よりも症状が増えて(2ヶ月後には一日中になるんだけどね)、
身体もつらかったけど、
肉親の理解が得られないことも、つらかったけど・・・
「信じたい」という気持ちが、つらかったな。

きっとね、この人もある程度まで、同じような気持ちなんだと思う。
信じて、期待して、裏切られるのはイヤだ。
自分で判断したことに、後悔は、したくない。
結果がどんなふうになっても。
信じた、期待した、愛した、許した、ことは、その人自身のものになるよ。
「判断」するまで、全身全霊で感じ、頭フル回転で考えたこと、は、
誰にも持っていかれない、火にも焼かれない、風雨にもびくともしない、財産になるよ。
自分の周囲の人や現象を、誰かの言葉や意思にとらわれずに、
誰のものでもない、自分の心で、感じ、表現することはまた、
この病気の回復に役に立つよ。
この病気から回復していくということは、
自分の心で感じ、頭で判断し、表現できるということなんだ。
幼い頃から、大人を怒らせたくなくて、悲しませたくなくて、喜ばせる必要があって、
他人に合わせて自分は我慢ばかり、の子が、他人が怒ろうが、悲しもうが、
「私は私!」と叫べるようになる、ということなんだ。
病気の心で選んだ進路。病気の心で選んだ異性。・・・は、症状を悪化させる。
と、センターは切り返すと思う。
症状が悪化すること、をおそれて、センターの判断に従う子が多いけれど、
それもいたし方のないこと。
症状のほうが怖いもの。
症状と一緒に生きている、という未来のほうが苦しいと思うんだもの。
それも、よくなって、普通の世界に帰るために、とても大切な「感じ」だから。

そもそも、病人は、「自分の心で感じ、頭で考える」を制限される苦しさを知らないのだ。
いや、「自分の心と頭を使う」ことを知らない場合さえある。
その「恐れ」だけで一杯になり、センターの判断に従う、のみ、となってしまっても、
その時点では、仕方がないのだ。

・・・まとまらないし、誰に宛てて何を書いているんだ?
という感じなんだけど・・・(早く寝ろよw)難しくてすまぬ・・・
hinaさん、またよく分からないセンターのこといっぱい書いてしまったー
頭、いっぱい使ってしまって、ホント疲れちゃうよね。
でも、それも、心が感じ始める前奏、ということもあるから。
「頭がめちゃくちゃ働いてしまうのは、『感じたくない!』心の最後の抵抗、なのかもしれない」
日常生活しながら、仕事しながら、勉強しながら、本当に大変だよ。
症状があるならますます「忙しい」。
休めるなら、休めるときに、ゆっくり休めますように。