眠る前に雑記

急に、気温が低くなって、
日照時間が減って(「秋の日はつるべ落とし」とは、このことを言っているのだそうだ)、
日中の太陽の光も弱まったように感じられるこの頃は、
病気で無い人も何らかの心身の不調を表現していることが多い、と感じる。
もう朝、外を見ただけで、悲しくなって、虚しくなって、鬱っぽい感じが「鋭く」迫ってくるようで・・・
再び、精神状態は、「仕事に行くだけで必死、の、その日暮らし」風に。
過食嘔吐は去年の今頃と比べて、時間も金額も、減ってはいるけれど、
ちっとも気持ちは晴れない。

もう開き直って、
「しんどすぎる・・・何この暗さは?悲しさは?
 理由もない悲しさは?」と一瞬一瞬感じ倒すしかない。

多分私ほどではないにしろ、何かの病気の有無に関わらず、
この季節のこの国の人は、
同じようなもの、大なり小なり、感じているはずだ。と、勝手に一般化してる。w

以前スープちゃんが、
日本のどの時代の芸術も、この、「心がついていかないほどに」
変化が激しい気候が生んだんじゃないかな?
と、言っていたのを、思い出す。
正確ではないと思う。
心がついていかないような、この気候の変化の中で、生きてきた人たちのもの。
そんな意味もあったかもしれない。

それなら、このわけの分からない、「鋭い」悲しさも寂しさも苦しさも暗さも、
日本人の誇れる特質で、時代時代のすばらしい芸術品を世に出す元になったもの。
闇を、影を、感じる、も、またアート鑑賞のようではないか?(ないかw)
と思うことにしている。

「感じる」心と身体を持ったことは、決して不幸なことじゃない。
そのために、こんな不便な「症状」を持たなければならなかったとしても。
いつか、すべての病者が、心の底から、そう思えますように。
摂食障害になる人は、年齢、性差、人種、文化の壁を超えて、
心と身体と頭の丈夫さと敏感さを、あるレベル以上に共有していると思う。
症状の不便さで、それらが徒費され、磨耗していくのが、どこかで食い止められ、
それぞれの望む形で、世界に還されるのを願っている。


今日も忙しかった。
明日も頑張り過ぎないように、
でも、「感覚」を麻痺させすぎないように、
頑張ろう。と 思う。
それで症状(過食衝動)が出たなら仕方なし。
今の私が怖いのは、症状が出てしまうことではなく、
どうしょうもないマイナス感情でもなく、
感じなくなってしまうこと・・・
この、生まれつきの、忌まわしいほどに過敏な、心と身体の
感じを麻痺させて、生きるも病気を治すもあったもんじゃない。

たくさんの病者の表現に日々触れて思うのは、このひとつ。
どうか、美しい毎日を。