世界史の年表を見ていると

連休前も忙しくて。
また、いろいろありすぎて、
外部・内面両方の変化に、
心も頭も身体もついていけていない風で、
なんだか、疲れて、少し悲しくなって、イライラする・・・
動き回っている方が、楽。
蒸し暑くて、じっとしていても身体がベタベタしてきて、
そんなに快適な気候でもないのに、
周りが適当に騒々しく、散らかっている気味のほうが、
静かで、温度湿度が適当で、清潔に片付いているよりも、楽。

恐ろしいものを見た。
これほど攻撃心・嫉妬心・憎悪・私的な恨みが充満した
ネット上の場所、というのも久しぶりに見た、と思った。
「私たちが何かしなくとも、社会が判断して呉れます」
「少しでも常識のある人ならば、これを読んだだけで、その団体の実態を感じ取るはずです」
憤る私に、今誰よりも大変な立場にある筈の、一般の社会人であるあの人は、静かに、言った。
けれども、同時に、私には、ダメージが大きすぎる、とも・・・

このおぞましいブログを書いている本人は、
実名を検索窓に入れれば、予測検索も出るし、
その「事件」の詳細が数百出てくる・・・
でも、攻撃対象になっている人は、病者であって、また、
完全な一般人で、かつての、その「事件」の被害者なんだ。

私は、こんな人をどこまでも許して、
早く、「借金」をゼロにしてあげて、そして、
世界へ連れて行こうとしていたのね。

おかしいものをおかしいと感じられること。
怖いものを怖いと感じられること。
それを、表現できること。
を、抜きにして、本当の病気の回復もないと思う。

この「感じ」が無ければ、人類はまだ原始時代なんだ。
この「感じ」が、何千年もかけて、人々の意識を変え、社会を変え、
また、今この瞬間も、世界を変えようとしている力だし、
ひょっとしたら、世界、宇宙それ自体を生んだ力なのかもしれないとすら、私は感じる。
それをひたすら押さえつけて「修正」して
「従わなければ悪化する」と脅して盲信を強いた所で、
この病気になるほどの感受性を持った人は、必ず感じてしまう。
それは、止められないことだ。
「表現されない」ことは「感じていない」こととは違うのだ。

恨み、攻撃心、嫉妬から容赦なくこんな形で個人を叩く者・・・に、
傷つけられたひとの暮らしが、どうか早く回復されますように。
そしてまた、まだ、一般社会に復することも出来ず、こうしている今も、
「過労気味」になるほど無償労働を強いられた人たちが、
感じること、表現すること自由な、普通の社会に帰り、少しくらい症状があってでも、
悪いことなど起こりはしないと、希望を失わないで生きていかれるように。
願う。祈る。

もう本当に面倒くさいな、と思う日があってでも。
愛する も 感じる も 表現する も・・・
生きるなら、譲れないもの。
そして、それらを、どこまでも地道に誠実に行うことが、
病気を良くして行くことなんだと信じる。