記録 2019.06.22.うみのほね(個人の感想です。効果は個人差があります)

*画集、映像集どころか感覚集だった(-__________-)
また全然「望まれていない」「好ましくない」「普通でない」感想を書き連ねると思う、申し訳がない。
(↑書きながら「これもなぁ」とぐちゅぐちゅ思うこと多々、別記すると思う)

普段読んでいるものと言ったら 新聞。ガチガチの経済記事。ゴリゴリの研究者の解説。(日本語訳が出ていない)海外視点の、何かの報道記事、オピニオン。
それも油断するとすぐ山になっちゃうね、みたいな非常識な量。
エッセイやラノベどころかノンフィクションすら読まなくなってる。
詩歌なんてサラ川はチェックするけど程度の私が、詩集を購入。

気が付いたら全身ユニクロしまむら、GAPだね、さすがにどうなん。なのに急にデパートのハイブランドフロアに連れていかれたみたいな。
外食といったらファミレスどころか、モールのフードコート一択なのに急にホテルのレストランに招ばれた、みたいな。
敷居高えぇ〜〜〜〜〜〜な、純粋に、言葉がアートになっている世界ですよっと。

なので詩のたのしみ方などは全くわからないが、
偉そうに語れることなど何も持たないが、
読んだ人みんなが同じ(似たような)感じ方をするかはわからないが、
とにかく、一枚も具体的な画などないのに、音が添付されているわけでもないのに、
白い紙に活字が、それも「みっしり」ではなく「ぱら ぱら」とした感じに書かれているだけなのに、
感覚の洪水 だった・・・す ご い
あふれる色。
空気感。
音、風圧、
温度、湿度、
におい、味、
眼だけでなく皮膚でも感じる光の感じ。
激しく入れ替わる明暗。

言葉には こんな世界に人を引き込む力があるんだ。いや驚いた。
(一方で、いや、これは私の感じ方)
たぶん「普通」はここまでこんなに「立ち上げない」
とも、ぼんやり。
自分の「感じ方」「引き込まれ度」の甚だしさにも改めてびっくり。
そして、それに気が付いても、以前ほど、「不快」ではない。
もっと自由に感じても良いんだ。
人がどう受け取るかを、恐れなくてもいいではないか、と、勇気づけられた感じがする。

10代から20代前半は特に「自分の感受性が高いこと」「ひとと違った感じ方をもつこと」を思い出させるようなもの・機会は悉く不快で、避けて通っていたと思う。
(あっさり書いているけどこれも苦しいよなあ・・・また詳細に掘り下げるかもしれないけど)
それこそ、アートすべてね。
街に流れる流行歌、美しい画、かわいいもの、すら、「過敏」にさせられる気がして。
惹かれながら、次の瞬間には「はっ」として遠ざかるように目をそらす。
「私は、私の感じ方を持ってはいけない」と思って育った「人一倍感受性の高い」子どもは、
そのことを思い出させるような、感受性のキーをあげてくるようなものは、惹かれながら、いつも「頭で」拒絶してたのね。

いつも傍に居たのは、(一緒に暮らさねばならなかったのは)自分の感じ方を、言葉を、行動を、全て肯定してくれる相手としか娘を見なしていない母。
(今でも捨てられない、が、読み返そうという気も起きないが)実家を出た後、よく送られてきた、超長文の手紙。
(小学校低学年の頃、連絡帳が担任との「文通」状態になっていて、私もリアルタイムで熟読してたことを思い出す。
 わたしがだらしがなくて困る、お友達はみんなしっかりしてるのに・・・的な延々とした愚痴。
 つきあってた女担任もすごいなあと思う・・・もう30年以上前の話だが)
「この人は、自分のことしか見ていない」
「私が、どう受け取っているかなんて、関心もない」
「ただただ、自分が望むように反応してくれればそれで満足・・・」
「満足してくれるようにだけ、振舞って『耐えて来た』のが私」(父や妹はそこまでしていない、また、できないし、その必要もない)

※時々「『ここ』が親バレすることが怖くはないのか」とはいろいろなところで、言われるけど。
バレたところで、彼らは、読めません。
夢ちゃんのお父さんと一緒。
ここを端々まで読み、理解し、まともな思考で「今からでも、何か、出来ることは」と、自分で考えたり、然るべきところに相談したり、自分達が痛みを負ってでも、考えや言動を変えようとか、思えたり、行動したりできる人たちなら、40年も経つ間に、私はここまで追い詰められていない。
何も出来ない。何も。
読めたとして、せいぜい、
自分に関する「少しはましな気分になれる記述」、
「少しは自分たちの将来や体面が安泰と解釈できるような材料」
(極論、自分たちが**前に、私が**を実行「しない」)
を探すか
それも殆ど見つけられない(見つけられなくなった)なら
読まなくなる、忘れる、だけでしょう。
だから、『ここ』は、彼らに知られるところとなっても、「ない」のと一緒です。

私の本当に思っていること、感じてきたこと、は、彼らには「ない」のと一緒。
甘えられない親なら、いないのと一緒。
どうしてこんなことに、今まで、気が付けなかったんだろう。
こんなことが、言葉にならなかったんだろう。


しゃれこうべ、しゅうしゅうと」
「あい、づ」
「ちくちくぬいぬい」
かけらで遊んでいるとなんだか楽しくなってくるよ。
心のどこかを、何か、「良い方」に揺らしてくれる感じがする。
もっともっと、感じ方は自由でよい。
言ってもいいのよ。書いてもいいのよ。
と。
私の勝手な感じ方なのだけれど。

またぱらぱらと書くような気がする。