記録 2015.04.09.今日も寒かったな〜

*今日もなんか寒かったなあ。
一桁ではなかったみたいだけど、12度以上にはならなかったようだよ。
また、お風呂にお湯をはってごそごそを堪能させていただきました☆
あと2か月もしないうちに、ほぼ水風呂じゃないと耐えがたいくらい暑くなるんだもんねえ。

*本当ね、続けたければいつまでも続けられることでもなくて。
今日。今。この瞬間にも、不本意に終わってしまっても何も不思議はなくて。
それなのにそれなのに、なぜか、そんな一瞬一瞬、一日一日、一年一年を重ねて、
「今」こうして。辛い時も嬉しい時も。
自分の思いや感じなどに構わず流れる何かに流されているかのように。
やっぱ、誕生日って、奇跡のような積み重ねの節目、で、めでたいと思うんだなあ。
一般的には、特に「おもかげの、かわらでとしのつもれかし・・・」で、女の人は、
「ハタチ過ぎたら、ご愁傷様です、じゃないの?」かもしれなくてもさ。
私は今でも「一年早いねえ」なんて全然思えないし、
誕生日は、毎年、「本当に、何もかもに、おめでとうで、ありがとうだなあ」で、
しかも年々その程度が強まっていると思う。

*お母さんもお父さんも、寂しさを無自覚に抱えたまま、私たちに出会って、
「自分たちがいないと、一日も、生きられない」子供たちに愛されて、
初めて十分に愛を注いでもらった気になって、
「自分」になれたと思って、なんでも許してくれる人が側に居て呉れるようになった、
と、安心して、満たされて。そしてそれが「暴走」しちゃって。
「自分」は満たされて育ったけれど、子供たちの中の寂しさが病気に育って。
「この代」だけの話じゃなくて、何百年と繰り返されてきた話なんだと思う。
「何でも言うことを聞くから、生き返ってー!やだーお母さん死んじゃいやだよー」と、
幼児に泣きつかれ、「生き返った」時の満足げな顔が忘れられない。
「いい子にする?言うこときく?」
「そんな子は夜、川に捨てて来ちゃうわよ」
子供を自分の思い通りに「操作」するためのカードの数々。
「だって、そうよね?ねっ?」
私が「うん」って言うまで繰り返す、あの顔。
「きれいねー」
「ほら、○○ちゃん、見てっ」
「きもちいいねー●●が一番ねー」
「おいしいねー私、これ、大好き」
「○○ちゃんには、これが似合うわよ!」
「これ、好きでしょ?」
(妹は「えー私はそうは思わない」「そうかなー?」と言える子なので、うん、無事w)
「うーん・・・」と迷っていると「え?なんで?」
きっと母は100%悪気なし。認めてもらいたい病モロ出し(今も治ってない。
 現在は父に「ねっ!」を繰り返しているw・・・
 父も普通なので普通に自分がそう思わないことは「そう?」と返しているw
 「あらやだ。なんで?」私が嫌った不満顔もそのまんま。w)
「うん・・・」って言った時の「でしょー?」って、嬉しそうな顔が忘れられなくって。
「自分の考え、思い、感情など、持っていたら、不便だ」と、もう、小学校低学年の頃から「そんな」だった・・・
しかも、みんな「そう」だと思っていく。20年以上に亘って。
それがどれほど苦しいことか?人生をゆがめたか?
あらゆる異常な症状の原因となったか?
彼女は一生分からないまま行く。
私だけが魂の芯の芯まで叩き込まれて「知った」こと。
毒親の毒、とは何か。何が、親から「遺伝」してきたのか。
すべての病人は、それを「知る」機会は得ているのだと思う。
私は、それを何百何千年に一度の「幸運」と思っていて。
「感じられる」って、幸せね、と、近頃、改めて・・・ブログってすてき。

*なんて、雲をつかむような話を書いてるんだけど、日中は、もう変な汗かきまくりの。
家に帰って来ても、紙に○ □ → ←「・・・」と考え込んでしまう。
考えていないと、またピントのずれた質問、テンポのずれたことをして、鉄拳が飛んできそうな。日々。
みんなすごいなあ。本当にすばらしいなあ。かあっこいいなああ。
頭がいいんだなあ。勉強してるんだなあ。努力してきたんだなあ。
恥ずかしくない様に、がんばりたいなあ。
そう思わされるような中で働けるって幸せなんだなあ。
「また」不可抗力が働いて、月末でクビっ。wみたいなことになるとしてもさ。

*靴もまたそろそろ磨きたいし、毛玉とりもしたいのが何枚か。週末あたり出来るかな。どうかな。
灯油はどうしようかなー。